真昼の淡い微熱

感想ブログ

A3/森達也

森さんの感傷的な文章、好きです。

「杜撰すぎる精神鑑定」の内実がわかって良かった。


「入浴は拒否する姿勢を見せないのに裁判関連には選択的無関心」のレトリック、私も騙されました……。
あー。酷すぎるね。一緒なのに、作為的に訴訟能力はあると判断。
「もうまともな収穫は得られないだろうからさっさと処刑してしまえ」という国民の声。
それでも裁判の手続きは踏むべきだと、例外はやがて演繹されて通例になってしまうと、繰り返し主張する森氏。
アイヒマン実験の怖さや、善意や正義が思考施行を歪ませるとか、私の価値観にすんなり入ってくるから同意しやすいのです。

「オウムは変わらない」。
その証拠となるサマナの「痙攣」とは。
こちら側から見ないとな。

「弟子の過剰な忖度ゆえの暴走」か「麻原の絶対命令」か。
そんな二元論じゃない、安易に四捨五入するなと。
賛同や、「よくやった」と褒めるなどが、麻原の加担であった。それゆえに暴走した。
一人一人の責任感は軽い。上から言われたから。麻原を信じたから。だからこそ、自分で決断していないからこそ、暴走できる。
弟子たちの権力闘争があったのではないかっていう弁護士側の指摘はあまりぴんときてないんだけど、どうなんだ。
てーか、『麻原裁判の法廷から』もそうだけど、ここでも裁判所側の人間味がかなり薄いというか、大衆の"正義"に迎合した存在として描かれてて驚く。
結果的に実際に、かなり意味不明な行動を繰り返すわけだけれども、これこそ安易に「民意の反映」と捉えてよいものか?と思ってしまう。
しかしそう理解するとかなり整合性のある対応をしているわけで(時系列ではなくインパクトのある地下鉄サリンから審議したとか、かなり大雑把な割りだし方で、対応しきれないのわかりきってる「被害者」を3000人と措定した挙げ句に14人に搾るとか、かなり杜撰な精神鑑定結果をそのまま法的効力のあるものとして受け入れるとか、弁護側の控訴を一日と待たずに死刑確定とか)、おいおいとしか思えなくなってくる。
そしてだからこそ、この部分が「正義」かつ「悪」として描かれるわかりやすさから、にわかには信じがたいな、と。