真昼の淡い微熱

感想ブログ

ツインスター・サイクロン・ランナウェイ 全4巻/小川一水

Audibleで聴いてた。
途中、紙の本に切り替えようとしたんだけど、冨岡美沙子さんのナレーションがあまりにもしっくりきすぎてAudibleに戻した。
いや、もう、冨岡さんのテラダイ以外考えられない。紙で読んでても声が再生される。

聴いたのが結構前だからだいぶ抜け落ちてるし、そもそもSF素養がないから漁や戦闘シーンがほとんどよくわからないまま雰囲気で聴いてたんだけど(サークスでのヌルデ対決とか致命的に読み取れなかった、、漁とかアニメで見てみたいなあ)、百合的には萌えるしここ数年トレンドの家父長制打破シスターフッドものとして興味深かった。
家父長制打破シスターフッドって私いまいちノリきれないんだけど、その子たちがさあ、恋愛をやってくれるだけで劇的に新しくなると思うんだよと思い。

はーだってダイオードが何か深い戦略があってフィンドム買ってるのかと見せかけて普通にテラに欲情してるだけとか身悶えするでしょ。
基本的にこの子たちは互いのことを大好きって言い合ってるだけ。
ダイオードが元カノのこと大好きだった歴があるのもまた良し。
処女同士じゃなく、精神的処女(性経験があっても好きな人とはしてなかった)同士でもないカップルが見たいんだよ。

ウテナやシムーンやユリ熊嵐のその後を描く話だと思って、そこがどうなるのか気になってそれで最後まで突っ走った。
家父長制コミュニティから脱出した先の荒野に何があったのか?

今思ったけどポストトランプの作品だなこれ。
アメリカ全州で同性婚が法制化されたのは、オバマ時代だった。日本から眺める世界の動きは羨望の限り。
オバマ時代までは、婚姻・差別禁止等の法整備が遅々として進まない国内からの脱出を信じることができた。
日本会議・統一教会・家庭連合、家父長制利権の強い日本の外に行けば、女の子と女の子は手と手取り合えるのではないか、たとえ荒野だったとしても。

しかしトランプ始め欧米の極右勢力台頭により、「外は、外で、ユートピアではない」ことが実感レベルでわかってきた。


そういう、腐っても生まれアドバンテージのある地元を捨てた(捨てざるをえなかった)不安定な移民が外は外でのままならなさに直面していく、ウテナのその後を描いた作品だった。
そこで真っ先に出会うのが同性愛差別のないユートピアのような星で、「でも私たちって縛られるのが嫌なんじゃなかったんですか? テラさんはユートピアになら縛られてもいいんですか?」的な問いが入るのがよかった。
地縁に寄ることそれは自由を失うことと引き換え。
結局いられなくなって有耶無耶になるけどマギリの(思惑のある)花を手向ける2巻?ラストは作中一番の名シーンだったな。


マギリとエダがAMC粘土だとしても想像力の限界により男女の性行為を模倣するしかできなかったことが、悲しみとして描かれていた、ような(うろ覚え)。
なんか……なんかもやってたんだけど……こう……
それを悲哀としてすら描いてほしくなかったのかもしれない……!
もちろん無批判にそりゃセックスといったら性器を性器にいれるしかないよね、てやってるのは論外なんだけど。
女同士の話をしているのに参考文献として男女セックスがちらつくのが嫌だったのかも。
あと、それとは真逆に、「性器を性器にいれるという型は男女セックスだけが占有していいのか?」みたいな感情もあるかも。ただしそれは詭弁で実際占有から解放するにはそれなりの手続きが必要。

今更ながら面倒くさい百合オタクである。
いや必要だと思うよ、マギリとエダの描写も。
テラダイセックスは過不足なく普通によかったと思う。「普通に良い」の希少さよ。

自由を求めたダイオードが人外になったと判明して自分の自由意志とは? という話になっていくのはSF的。
ひとところに留まるのは自由を失う行為では? からのそもそも自由意志とは? だから、テラダイの船旅人生そのものが問われてしまう。
その決着が気になっていたけど、解としてダイオード母の生き方(辺境の地で愛妻と二人暮らし)が理想だねって話になったのはまあそういうものかあと。
あれ、テラダイどこに住み着いたんだっけ、記憶おぼろげ。

しかし作者の小川さんて聞いたことはあるベテラン作家とは思ってたけど百合オタクだったんかな、セックス描写とかも含めて百合オタがこだわる部分を的確に押さえていってた感があってよかったんだけど。
ベテラン男性作家が家父長制打破シスターフッドをやるとこういう二項対立になりがちよなと思うけど、こういう二項対立にしている人がこんな百合をやれるのも稀有と思う。
途中マギリに裏切られ、軍?からマギリエダを捕らえろと言われその気で頑張ろうとするけど「私たちとマギリって対立しなきゃならないんでしたっけ?」と我に返るところとか。でもマギリは別にそういうお仲間意識には与しないとか。

氷の城壁 全14巻/阿賀沢紅茶

湊こゆにめちゃめちゃ萌えている。
そんなつもりじゃなかったのに……。

カップリングの型は王道中の王道。それを丁寧に丁寧にやっていて、万人受けする「私だけを溺愛するイケメン彼氏」ってこれですよね、って感じ。

恋愛ものって何十パターンあるテンプレに読者が親しみあればあるほど脳内補完で萌えることができるものだ。
逆に言うとパターンへの好感がないと補完できずに薄味や渋み、癖を感じて苦手になる。

「私だけを溺愛するイケメン彼氏」もそれ。
いや私は結構それそのものへは好感あるほう。だから少女漫画好きなんだし。
でもテンプレは薄味だし、鼻につく傲慢さを感じると受け付けなくなる。

この作品はそういう苦みや渋みを丁寧に漉して、取り除いて、その上で素材の味を磨いてお出しされる上品な紅茶。
だから喉越しすっきり萌えている。
超序盤で美姫が湊の傲慢さを指摘するシーンとかね。漉し漉し。
あと五十嵐と和解できたこゆんが五十嵐には喧嘩腰(という名の仲良し)な態度で、次のコマで「雨宮くん練習頑張ってね」って頬染めするシーン大好き。
二昔前なら、湊への態度は恋に恋する憧れの王子様への好意からくるもので、自然体でいられる五十嵐とくっつくのが正しかったはずだから。
今はオラついてる男より優しい男がいいし、喧嘩しなくても仲良くいられるし、好きな人には好きアピールをすべし、なんだ。

こゆんが最低な態度とっても自ら謝れるとか、ふたりでそういう些細だけど大切なコミュニケーションを重ねていった末に打ち解けていったらそりゃ湊も好きになっちゃうよねとか、好き避けが普通に誤解されて終わるとか、桃香に「受け身で待ち」と嫌われるとか、そういう反省を経てちゃんと自分から踏み出してアプローチかけるとか、うん、肌感覚が合う職人技。
そういえば『正反対』を初めて読んだときも「肌に合う恋愛ものがようやく出てきたなあ」と感慨深かったものだ。

四角関係にしなかったところも現代。
カップリングの崩壊とか不確定さとか誰かが加害者っぽくなることとかが忌避される現代。
てのもあるし、四角関係で生まれるドラマってもうやれること限られてきて、あんま好きじゃないテンプレになるから。
「私はAのこと好きだけどAはBが好きで望みがないから言い寄ってくれるCに揺れる」……みたいな。
それだと、モノローグが浅いところで終わってしまって、もっと別種の感情を描く余地がなくなってしまうんだよね。
この作品はちゃんと別種の感情を深堀りしてくれる。
だからこそ湊と美姫の友情がおいしい、うれしい。
美姫がいるから、湊こいつ本当に心から優しいな? とわかる。その優しさを恋愛期待に変換せず素直に受け取ってくれる美姫は湊にとっても救いだと思う。
「無駄に期待させない」みたいな配慮はないタイプだけどそうでなければ美姫と深い友達になれないしまあまだ子どもだし……。

湊くらい空気読める人がはみ出し者を見て自分もそうなるかもと不安を覚える(から輪に入れようとする)というキャラ造形ってちょっと違和感あるんだけど、それを上回るくらい他でのキャラ立てがしっかりしてるから納得できる。
兄のエピソードしかり、依存されて優越することへの自己嫌悪しかり。

異性愛であんま思ったことないんだけど、みなこゆ付き合ってから初めて公園で逢瀬したときの湊の熱度を見て「こいつらにセックスしてほしい!!」って強い萌えが発生してしまった。
そこまでのじゃないけど美姫とヨータのカップルも好きなのでどっちも同じくらい読み返している。美姫の告白を恋愛と受け取れないヨータとか。

ああ、まあ難点を挙げようと思えば色々あって、一番は「すべての言葉を交わしあえたらわかりあえて利害衝突もなくなる」シーンの畳み掛けは残念。
美姫とこゆん、こゆんと湊、こゆんと母のかくかくしかじかが省略される話し合いのところね。
あと落ち込んでる人や恋敵への言葉かけ処理がいまいちなところがあって傲慢ぽいまま終わってしまうところ。
湊の自己嫌悪問題とかもっと掘り下げられるからこのふたりの付き合ってからの齟齬も見たいんだよな。

劇場版魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天

期待を下回らず、期待を上回らず。
今までそれなりにTVシリーズ4周叛逆10周くらいしてきたし今回のために準備で再視聴もしてきたにもかかわらず言うほどの愛着もないのでそういう意味では気楽に期待をかけることができていて恐怖もなかった。面白くなかったらどうしようみたいな恐怖ね。
だからちょうどよく期待をしてそのとおりにお出しされた。俯瞰視点を手放すことがなかったけれどいやはやさすがに脚本上手いよな、このまぜまぜをとっ散らかりながらもまとめあげる、贅沢な演出よと感心しては時折棘が刺さって泣いた。

ただ知っている。セルフオマージュを多用しはじめたコンテンツは終わりの始まり。
残念だったのは既存のキャラたちに新しい感情が表れなかったこと。保守をしだしたら終わる。
ああまあなぎさは色々新しい側面が見れた(うれしかった)けど当初の5人はもう描くことないんだなと。
だからラストは「いや続く気満々かい」と突っ込んで終わった。

やっぱり私は叛逆が好きすぎる。
叛逆のファンサービスもキャラ描写の満遍なさも予定調和も謎も仕掛けも情報開示コントロールも完璧にやりきってからの予想を裏切るラストとTVシリーズへの批評的眼差しが凄すぎた。
TVシリーズは深夜アニメ・1クールの枠組みでの情報開示コントロールがいちばん巧みだった。だから10話が伝説だし、10話のコネクトが今でもアニメで一番美しいEDだと思う。

今回それらを上回ることはないと最初からわかっていたしだから気楽に期待をかけていたのだ。
その上で、「まどかをどっちに行かせたいか」が最後までわからない展開は素直に上手いなあと思った。
その一点で最後まで引っ張る。
だからそこをぼかして投げっぱ考察頼みは卑怯だろうとずっこけたけど、まあ、それを批判するだけの愛着はないんだよな。
まど神の必要性をたっぷり示してかつ一辺倒にならないよう変則的にセルマで伏線張って回収しつつ「円環はどう考えても必要」への道を丁寧に舗装してからの「結局まどかはどっち行くの?」と引っ張る力が強くて興味を惹かれたからそれでもう充分。
前半ほぼ説明パートみたいなものだったけどそれで良しとするだけの濃いファンがついている、視聴者への信頼があるコンテンツになっている時点で勝ちかなと。
精神分析いろいろできそうな演出の数々面白かった。

ギスギス魔法少女でこそまどマギですよと思ったので最初のさやほむ険悪はワクワクしたしドーナツの穴から振り返るほむらの「いやほら未練あるんじゃん仲間に!」はテンション上がったんだけどなんだかんだほむらは孤独になりきれずいがんでいるのはさやかだけなばかりか結局仲良く喧嘩しているので拍子抜けたり嬉しかったり。

まどかの紫丁香への「ごめん」は見た目洗脳されきったモラハラ被害者っぽいんだけど(本来)全能の神による「ちょっと忙しくて手が回りきれてなくてごめん」で面白かった。

セルマみたいな突き抜けキャラって平面的だからあんまり好みではないんだけどちょうど今自分が強迫観念に強く苛まれている時期だからその自己破壊的な強迫観念にいたく感情移入してしまってぼろぼろ泣いた。
愛されたかった……わけではないけど、本当の感情を極で糊塗する、そうしなければ生きていかれなかったのだ。
お前円環側かと思いきやそっちかいなるほど~~!だったしね。

卑下型全体主義者セルマの病理を信念ある我欲享楽主義者なぎさが倒す。さんざん資本主義システムの隠喩と目されてきたキュゥべえに類する比喩。
資本主義への無意味な奴隷的奉仕VS享楽主義の構図なんだけど、微妙な対抗しきれてなさが意図的なのかどうかわからん。
いや、あれか、日本のアニメオタクの内的葛藤が表れているのか。

犠牲的労働をしなければ認めてもらえない
VS
システムも歴史も無視を決め込んで趣味の享楽に溺れたい

「負けるとわかってても戦う姿が良い」「役立たずのままでいてほしかった」みたいななぎさの台詞ってまんま視聴者の代弁だ。
美少女キャラにさえなれば、役に立たなくても、トマトを投げつけられる役を引き受けなくても、愛されるのにね。オタクに。
オタクコンテンツが労働や社会からの逃避でもあることは疑いない。しかしいくらなぎさが積極的逃避を選ぼうと、逃避ではシステムからの搾取に勝てない。
だからなぎさはシステム被搾取者は殺すことができるけど、システム自体には対抗できない。脇役だから。
システムに対抗する者こそが主役だとはTVシリーズ本編と叛逆で示された通り。

ともよさんと悠木さんて演技似てるキャラのときあるよな~。セルマ時々悠木さんかと思った。さすがにまどかは唯一無二だが。てか今もまどか声完全再現できることが嬉しかった。

叛逆についての考察ブログで「まどかは円環の中で他の魔法少女たちとわいわい楽しくやってて言うほど孤独でなさそうだった」って解釈読んでたしかになと思ってたから今回ほむらが介入したことによって円環の性質も歪んでしまったと明らかになったのがいちばんショックだったかな。
もう円環すら元には戻せない。

一貫して自己犠牲をテーマにしてきた作品でまたさらに自己犠牲の悲劇を重ねたのに最後がお茶を濁した結末はどうかと思うよ。
まあでもさやかのほむらへの叱咤口上はとても響いた、よかった。泣いてた。

ふつうにワルプルギス秘話も面白かったよ。
面白かったんだけど取って付けた感じになってしまうのはやっぱりあったら面白いけどなくても別によかったなみたいな構成になってしまってるからかな。
ワスがほむらと戦ってるのを中断して魔女化まどかに近づくその瞬間に回想編入る構成にはちょっと感動した。あ、こんなごちゃついてるときにぶっこんでいいんだ! ファン信頼されてるな! と。

ただまあPLANETSチャンネルで吉田尚記が「劇場行った感触、もっとぶっこんでもよかった、ファンはもっと(物語を咀嚼する)顎が強かったと思う」と言ってたのもわかる。

違国日記 全11巻/ヤマシタトモコ

このブログを読めばわかるが私は違国日記のことを考えつづける人になっている。
違国日記〜8巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱
違国日記10巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱
違国日記11巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱

アニメがさ、良かったのです。特に1話が。
今思ったけどアニメ1話の原作理解が深かった。ヤマシタトモコは時系列を転倒させて千切ってバラバラにして再構成させたらわりと右に出る者がないほど上手いから、それをアニメ1話時点でさらに原作再構成してアニメ用に効果的にバチコンとキメてきて、くらいました。
喜安さんの仕事に称賛。

昔喜安さんがプロデュースした短編アニメ集のことを最近思い出しているのだけど、こういうのを掘り返すのは良くないかもだけどあれとは全然真逆の世界を『違国日記』で描ける人になっていることが嬉しかった。
それで嬉しかったのは原作のエグみを多少軽減させている点で、5話での槙生ちゃんのセリフから「慰めスタイル」を抜いてくれて、ささくれだった心の私が安堵しました。


それでねー、問題のささくれですが。
また原作を1から読み返してみて、私自身が「侮られ、見下される」子どもの劣位性に対して鈍麻してきているなと思った。
それがさみしかった。
私はかつて子どもと侮られることへの怒りが体に充満していた。だからこそ3年前はこの作品にざわざわしていたし、怒っていた。

でも今はささくれがなめらかになっている。
朝がこんなにも遠くてわからなくてさみしくて絶望している槙生ちゃん相手に「あのとき槙生ちゃんが言ったこととかー/もっとずっとあとで意味がわかるのかなって最近思った」(9巻)と平気で言えてしまう素直さが、あの頃本気でわからなかった。
お前まじか? そんなに槙生ちゃんに都合よくていいのか? と思っていた。
こんなに見下されているのに。見下していることを槙生ちゃんは自覚していないのに。

今は少しわかる。少なくともざわざわしない程度には。素直な人はいるのだということを、わかるというか知っている。
今でも槙生ちゃんのことは卑怯で卑小で臆病で「それでも」と口だけで言うのが尚悪い有言不実行者という認識はある。
特に最終巻は今でも最悪だと思う。己の愛を引き受けよ。

でもそこに至るまでの過程は素直に、良いなと思った。
怒りはなかった。あんなに軽侮に敏感だった私はいつのまにかいなくなっていて、槙生ちゃんはただ雑で繊細で子どもで大人で、朝はただ無神経だけど素直に槙生ちゃんを受け入れられる、不可逆に世界を奪われた度量の広い思春期なのだと思えた。
自分の変化が良いことなのかそうでないかはわからない。たださみしくはあった。

それで今書きたかったのはこのヤマシタトモコの右に出る者がない技術力と、刺さって抜けない氷の棘の作家性についてですね。

技術力について。
時系列撹乱再構成って基本苦手なの私は。覚えてらんないから。
でもヤマシタトモコのはすんなり読める。覚えていられる。凄すぎ。
この技術を多用しているにもかかわらず全然飽きないし邪魔にならないのが凄い。(し、だから9巻42話の順時系列がこれまた光る)

7巻の↓このページの凄まじさ。磨き抜かれた技術の結晶だよ。

『違国日記』7巻/ヤマシタトモコ

いやーここからの一連の流れがこの漫画の頂点だ。いや個人的なピークは10巻の「約束して」なんだけど、7巻のこれは、なんでこんなことができるんでしょうね?

まず、ひとつひとつのセリフが鋭利だから記憶に残る。ここがいちばんのハードル。それとつながるのが、ヤマシタトモコの文学性、モノローグのうまさ。この時点で誰にもできない離れ業。
そんで1巻で示したテーマが作品全体に通底している。「子どもが守られない社会で、それでも子どもを守りたい」みたいな祈りがそれ。
「盥は」がその祈りの象徴であることはすぐ理解できる。わかる。
このページに至るまでの過程も丁寧なんだよね。
コンコースで歌うことになる朝の自意識や成長や槙生ちゃんとの関係性がまずある。して千世の久々の登校。千世と朝が絶望に同調する。だからこそ朝は千世を希望へと同調させることができた。1話ごと、章ごとの主題のまとめ方も上手い。

「無垢でなくていい」「わたしが許せないからしたことであって」は直近の話またはシーンに配置されていて、すぐ思い出せる。子どもを守ること、心を摩耗せずに感じきること、人のために何かをすること、社会を変えること、芸術の役割が会話劇によって自然に伝わる。またその会話劇のつなぎが巧みなんだわ。

「なりたいものになりなさい」は序盤繰り返された母の矛盾含む愛情で、でも子どもを守ろうとしている意思だけは一言で伝わるセリフ。

そういう前提がたくさんあって、

幼さを失う

無垢でなくていい

優しくはない世界から守られていた(なりたいものになりなさい)

わたしが許せない

盥は

こんなの許せない

と、するするつながる連想ゲーム。
回想内の「わたしが」とモノローグの「わたしが」で並列整理するのも読みやすさが上がる。
やーーこのページの凄さを分解しようと思ったがなんか全然うまく言えんな。




氷の棘について。
ていうか、ヤマシタトモコって内面化された冷笑をどうしても描かずにはいられなくて、それを制御しようとしている作家だなと思った。
それこそ7巻の森本千世を「演説」と言わせ、「なにあれ キレてる こえっ」を挟まずにはいられない。
この茶化しがあると、読者としては、ざわつかない。一歩引いていいんだよと言われているようで安心する。
その「客観性」は上手い漫画家ならみんな持っている。何かの思想に肩入れしすぎないように、反対のことを言わせるキャラを必ず配置する。
ヤマシタトモコのそれもその一貫なのだが、なんというか……上手い漫画家が客観性担保のためにやっているというよりは、それもそうなんだけどそれが行き過ぎてもう癖になっている感があるというか。うまく言えない。

あーだからなんかね、「本気になるとか熱を入れるとか真に受けるとかはダサい」っていう価値観を漫画全体からすごい感じるんだよね。没入しないようにしている。
それが他のところにも表れている。例えば多用される「うける」というセリフや、槙生ちゃんの朝見下しに。

そしてそして最大の武器である時系列撹乱再構成こそはこの非没入と地続きだ。
読者にのめりこませないやり方なんだよね時系列撹乱って。その場面だけに没入させないやり方。

非没入がベースにある、なのに、非没入的感性を覆そうとしている。ねじれてるんだよね。
ダサい……って思ってるけど! 恥ずかしいけど! それで終わっちゃいかんでしょ! をやろうとしている。
非没入を経てから没入へ向かうのが作品の醍醐味。
そのやり方で響いたのがフルカウントから渾身のストレートしかもインロークロスファイア7巻なんだけど、それがはずれてフォアボールになってるのが最終巻だと思う。(野球で喩えてみたかった。これが茶化しです、けど、伝わらんのでアマチュア以下である)

なんか、嗤う日本の「ナショナリズム」/北田暁大 - 真昼の淡い微熱で言うところの「笑えない左派のシニシズム」的なんだな。ちょっと違うか?

ヤマシタトモコは内面化された冷笑に抗おうとしている。非没入をもって非没入に抗おうとしているところがねじれていて、だから限界が見えてしまう。
それもある種いとおしいと言えるようになったし、それがあってこそ磨かれた技術力だと思うから良い。少なくとも「こえっ」を挟んで尚女性差別への怒りを叫ばせる漫画は必要だ。 

非没入自体はSNS時代アプリ時代の漫画の悲しい性でもある。ファン以外の読者の声が届きやすくなったことの弊害なんだろうと思う。
『違国日記』にもその影響は感じるんだけど、ただヤマシタトモコってそれ以前のノンポリ的な空気のほうが比重は重い気がする。
もしかしたら2chニコ動文化とかの時代の影響かもしれない。まあ私はそんなに昔の作品は読んでないから時代比較はできないんだけど。

……ていうことを、久々に『スニップ,スネイル&ドッグテイル』を読み直しても改めて感じた。
『違国日記』7巻の例のページと一連の流れがあまりによかったので、ヤマシタトモコの時系列撹乱再構成傑作といえばやっぱこれでしょ!! と勢いで読み始めたらのっけから「ホモ同棲かと思われんべーないわー!!」なんだもん笑ったわ。それを描かずにいられないんだろう。(いや、たぶん、今だったらこのセリフにしない気がするけど。これもう15年前の作品だしな)
久々に読んで思ったけど再構成傑作はもう『違国日記』に取って代わってしまっていた。

THE BOYFRIEND シーズン1、シーズン2

えなんか超よかった。
超よかったと思うと思ってなかった。
ちゃんと誠実に作られた恋愛リアリティショーだ。
と思ってたら、キャスティング時点でひとりあたりの面談7回とか聞いて、そりゃ成功するはずだと納得した。
そりゃそうだ。全世界にオープンリーにさせてしまうなら、制作側はそれ相応の準備とフォローが必要。
ということをきちんとわかっている構成だった。
恋愛リアリティショー、ちゃんと見たことがあまりないから、どこを見てそう捉えたか言えないんだけど。
いやでも「引っかかるところが全くなかった」という一点で評価に値するだろ。

スタジオコメント、最初警戒して見てたけど、セクマイを軽んじたり揶揄する言葉が一切なくて2,3話あたりから安心しきっていた。
徳井の「夕日が沈む前にー!」とか超よかったもんね。
いやでも「次はお天気のニュースです」とかの茶化しはやっぱ、引っかかるかも。

シーズン1はもう有無を言わさぬダイとシュンで。
こんななんか……これは萌えていいんか? え? と戸惑う。でもちょっと萌えてしまう。
シュンの気まぐれさでダイを振り回すところに衝撃を受ける。こういう人って……こういう人なんだ……!! えっそうなんだ……!?
私はこういうことされるとつい「こいつ何考えてるの? それをすることで私に何を思わせたいの?」と勘ぐってしまうのだが、あ、違うんだと。
本能的にやっていて、それは深いところでは不安ゆえの試し行動だし二者間の権力闘争でもあるんだけど、本人の意識としては本当に今なにか考えがあってそうしてるわけではなくてその時々の感情でやっているんだ……。思わぬ勉強になった。

そんでテホン〜♡でした。
アランが来た日のダイとの議論、同性愛の権利をデモンストレーションする必要があるということを、きちんと言ってくれる。テホン〜♡
でもそういう言い方になるよね、テホン、私もそうだよ。と思う。
シュンへの諭しを短い言葉でまとめるテホンのシーンがいちばん好きだ。
だからシーズン2のテホンは結局最後まで直視できなかった!
恋愛モードの親戚を目撃してしまった感覚。

ダイとテホンの議論について、「デモンストレーションする必要はないというダイの意見を入れてくれたのが(番組的に公平で)よかった」みたいな感想を見かけて怒っている。
お前が言っていいことではない。それは権利を叫ぶマイノリティを見てざわつきたくないお前の我儘を肯定されてお前が安心したいだけだろう。
ダイの葛藤を理解しないくせに表層だけ掠め取るな。

ダイのデモはこの番組に出演することだし、YouTubeやSNSをやることなのだ。実際一役買ってはいるだろう。同性愛はなんら特別なものではないのだと、違えようなく伝えるのにこの上ないコンテンツだ、リアリティーショーは。
どうか、声高に権利を主張することも、否定しないでいてほしい……。
しかしまあ私含む萌え消費者に消費されることを厭わない(むしろ感謝する)心性には衝撃を受けつづけている。



シーズン2はテホン、フーウェイ、ヒロヤと、ジェンダースタディーズに親和的とわかる方が少なくとも3人いてよかった。
負けたくねえよな、いやごめん「な」と肩を並べられる人生ではないが私は。
それでも二丁目への偏見があるという言い方を選んでしまうことも人間の難しさである。
イザヤとウィリアムがナチュラルに結婚を選択肢に入れていることが羨ましかった。バルセロナなら、anywhereな職なら、できるやん……。

グリーンルームはユートピアである。
同性が恋愛対象であることを隠す必要がなく、さらには相手もそうであることを互いに認識しあって複数名で日常生活を送れる場所なんか、基本的にはない。
どんなにか居心地がいいだろう。グリーンルームがその初めての場所になる。

視聴を始める前までは、同性間恋愛リアリティーショー、抵抗があった。
消費していいものなのかこれを?
でもこういうコンテンツによって初めて居場所を形成できるのだと思うと、(悲しさと同時に)意味があると思えた。
番組終了後もつづく仲間意識のようなものは、もちろんそこで篩にかけられた人間性も前提にありつつ、かけがえなさの濃度が濃いように見える。
シーズン2への応募が殺到したと聞いたがそれはわかる。

同性恋愛にはロールモデルがない、だから別れやすいって言うけれど、カズユキが元鞘に収まるまでの流れってなんか違う。
別れには確かにロールモデル不在問題があったと思う。けど、戻ったのは「ロールモデルを見つけたから」ではないよね。


カミングアウト問題。
どこまでも付きまとう問題でありながら、そこで「家族関係」に終始してしまう限界は、もしシーズン3があるなら突破してほしいな。
家族を含む、社会の話だから。
それでもフーウェイとボミの労りあいはすごくよかった。
そんなのさ、この社会との落差大きいユートピアだから、グリーンルームだからさ、言えたし、受け止めたし、泣けたんじゃん。
ボミの押し殺した涙は、いろいろな感情があるだろうけれど、大きなところで重なるからでもあるじゃん。わたしとあなたが抱えるおなじ傷が共鳴して生まれたシンパシー兼エンパシーじゃん。

セクマイと社会についてもそうだけど、それより更に後景化していたのが民族と社会の問題だ。
セクマイについては未公開映像で補完してたりするけど、日本で民族的マイノリティとして生きることについての言及ってほぼゼロじゃない? まあ、みんながみんな困ってるだろと断定することも暴力だけど。セクシュアリティであんま困ってないジョウブが居心地悪くなったように。

小さい頃は、神様がいて

今唐突に思い出した。昔山戸結希が「女の子が道で会うと、奇声を上げて駆け寄るのは、」「終わりゆくものへの会釈なのだ」と書いていた。(あの娘新聞平成24年11月号)
お別れのハグ。あなたがこんなに好きで、全身で好意を伝えなければならないのは、いつもそこに別れが潜んでいるから。
「あなたに会えるといつもさみしい」

なおしほのアホみたいないちゃつきは、そのお別れへのカウンターである。
女と女の恋には死がつねにそばにある。大好きだよ。大好きだよ。一生。ほんとに?
疑いがべっとりとまとわりつく。だからこそカウンターをやらねばならない。


「死ぬなら愛を伝えるべきだ。全力で」は真である。
逆必ずしも真ならず。なのに、
「全力で愛を伝えるならば、死がそばにある」。
そう見えてしまう。

これをなおしほは、あたりまえに、逆必ずしも真ならず!と叫んでいるのだ。

「全力で愛を伝えるならば……一生一緒!!!」


放送期間中たぶんずっと、都内の駅のホームドアにこのドラマのCMが乱打されていて嬉しかった。なおしほがナチュラルにカップルとして登場しているのだ。私も平静にそれを眺めていた。胸がざわざわしない。ただ嬉しい。



ま、それはそれとして。
途中からは慣れたけど、最初はこいつらのアホっぷりに辟易した。
これはこれで人間として描かれてない。
かろうじて他の人と話すときは人間だからまあ、慣れたけども。


そもそもが、ドラマ全体の評価として、展開もエピソードもセリフも全然好きじゃないけどキャラたちへの愛着は次々湧いてきたので見ていられる、という感じ。
ふしぎな感覚。号泣ラジオ体操回とか特に。

ホームドラマとしてキャラに愛着湧かせたらまあもう充分だろう。役者さんはみんなよかった。雰囲気が。
でもねー。
あんはまだ渉にどうこう言える立場だからいいとしても、たそがれステイツメンがみんな渉を軽んじてるのが不愉快だったなあ。
ご近所に夫婦喧嘩事情筒抜けとか嫌すぎる。
あと、順は、虐待受けたとまでは言わないけど、アダルトチルドレンでしょう。子どもなのに大人にならざるをえなかった子ども。
それなのにあんがやっと自覚したと思ったら早々に本人にぶちまけて己の罪悪感を解消させてくれと無意識に縋って、それで順はまた都合よく罪悪感を消してくれるわけ。模範解答。
この順搾取構造は見ていられなかった。

渉があまりに物分かりがよいところもずっと違和感ではあったけど、まあこれは『あのこの子ども』の宝みたいな役回りで、男がどう立ち回るべきかを示すためなのかなと思う。

他にもいろいろ相容れないところはあったけど、同時にキャラへの愛着が発生してくるから、ふしぎな感覚で見ていた。
並行して『アンナチュラル』を見てたんだけど、ヒール役が北村有起哉さんだなんて全く気づかなかった。振れ幅凄い……役者って凄い。

最終回近づくにつれてどんどん離婚しなくなりそうだったからはらはらした。
全然私もこういうやつは「離婚しないで~」って思ってしまうほうなんだけど動機が動機だから、これで離婚しなかったらかつてのあんの決意が救われないだろ。

結果、離婚はするけどたそがれステイツには戻ってくる。
うーん???
まあ、いいかあ。


キッチンカーの落とし所は良かったな。たそがれステイツメンがカンパしたくなる気持ちも、それが負い目になってしまうからと断る気持ちもわかる。
でもそれぽっちも投資できないなおしほの経済状況、親親族とも縁切れてんか? という不安定さ、悲しい。
カップル両方不安定職百合は、もっとほしい。いくらあっても足りない。

順とゆず、この年齢、年齢差の異性できょうだい設定なのって意外とあんまり見ないから嬉しかったな。

あ、あとユーミンの『花紀行』初めて聴いたけどめちゃくちゃ好みでびっくりした!
すぐ覚えて口ずさんだ。
紅白で聴く『天までとどけ』も耳に馴染んでいた。

PERFECT BLUE(パーフェクトブルー)

これで今敏監督作は『千年女優』『パプリカ』『妄想代理人』につづいて4作目視聴。

最初に見たのが『パプリカ』だったんだけど私は当時筒井康隆ドハマり期だったので原作の夢現さに形が与えられてしまいコレジャナイ感で不満だった記憶。

『妄想代理人』は好きだった。
けど視聴当時の自分があまりにも状況合致でキツかった。今ならもっとフラットに見れると思う。

『千年女優』はいちばん微妙。

ときて、これ。
90年代エログロアングラサブカルだあ。
痛いの嫌だから後半ほぼ画面見れなかった。つらい。

インティマシーコーディネートなにそれ時代のレイプシーン撮影、くそつらかった。
あのですね、ルミちゃんがつらそうな反応をしてくれたことによって多少救われたし、脚本家が殺されて、多少胸もすいたんだけども。
けれども私は俗物なので、単細胞ポルノ脳スイッチが入り、裸が見たい!とどこかで期待してもいる。
そしてその期待に応えてくれる映画なんである。
エログロアングラサブカル90年代だな、と思う。
ちらと見た限りではこの欲望についてネットに書いてる人はだれもいない。倫理に反するからね。
でもポルノとして描いてない、ポルノとして受け取ってないなんて嘘。
未麻がそれほどつらい思いをしていることがきちんと描写されて、そのつらさに釣り合うように関係者がきちんと?殺されて、ルミちゃんや内田が思いを代弁してくれるからこそ、その徹底した描写が、ポルノとして見る気まずさを緩和してくれる。
罪悪感ある窃視願望者を慰撫する面倒くさいオタク向けポルノである。
まあ、大概のレイプシーンなんてポルノですからね、単純に。
レイプシーンを見るといつも上野千鶴子の映画批評を思い出す。なんの映画だったかは覚えてないんだけど。普通の映画は嫌がる女を執拗に撮影するが、その映画は女から見た景色つまり加害者の男だけをカメラに収めると。撮る・見る権力性の暴き。
その意味でこの作品は凡庸なポルノ映画だった。
私もそれを望んだ。未麻かわいいしね。まあ90年代サブカルだから呑気にそう思える。もちろん現代のメディア環境で新作がこれだったら無理だよ。
現実芸能界でこういう被害に遭ってきた人はいるんだろうと思えばいつの時代もやるなよという話だけど。

今敏の話なんですが。
途中、夢と現実が混ざっていくところはテンション上がった!
これこれこれですよ。
未麻は演じているだけなのか、それとも自分を役者と思い込むことで心を守る精神疾患を患っているのか?
この浮遊感。
正直『千年女優』はこの感覚を味わえなかったから評価してないんだと思う。
この感覚にさせてくれた時点で成功です。
だからこそ最後ルミちゃんという「答え」が出てきたのはちょっと冷めてしまった。
白黒つかないほうが面白かったから。

ラストの「私は本物だよっ」、ほっとした。だ、だよね? 本物、だよね?
でもあとからじわじわ、わざわざそれを一人宣言する意味……と思ってちょっと怖かったな。

絵はずっと綺麗だった。やっぱ定期的に劇場版手描きセルの気持ちよさを浴びたい瞬間ってある。
演出に不満がないことの稀有さも忘れてはいけない。




あとこれ何かの批評本で誰かが批評してたから見たいと思って、でもいざ見終わって探してみると誰のなんの批評か全然思い出せずずっとモヤモヤしてる……。
『戦闘美少女の精神分析』かなあ? と思ってるんだけど……。

アンナチュラル

ドラマ。面白かった~!
『MIU404』にはそこまでハマらなかったから期待ハードル下げてたんだけどMIUより断然面白かった。

1話、スタイリッシュ……。
二転三転するドラマづくりがあまりにも完璧。
4話、4話やるせねえ……いちばんウッときてしまった。
このラインが最大値じゃない? わかりやすさとエンタメと社会問題を両立できるのは。
正直今もLemonそんなにピンときてないんだけど4話だけは参りました。夢ならばどれほどよかったでしょう……と思えた。

石原さとみが異次元のかわいさでかわいすぎた。
gendai.media
石原さとみといえばこの記事を思い出してしまう。(今読み返してみたけど『失恋ショコラティエ』評私より的確なこと言ってるなこれ)

ちょうどリアルタイムでドラマ『小さい頃は、神様がいて』を見ていたんだけど、渉演じる北村有起哉さんが宍戸と同一人物だって途中まで全然気づかなかった。
いや~~~~なかなかにショック!
わ、渉はそんなこと言わないよ~そんな悪どい顔しないもん~~(泣)

パワハラを無害化してるのだけはだめだろと思った。
最低でも訴訟までした坂本さんがUDIラボに戻ってきてはいけないだろ。