このブログを読めばわかるが私は違国日記のことを考えつづける人になっている。
違国日記〜8巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱
違国日記10巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱
違国日記11巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱
アニメがさ、良かったのです。特に1話が。
今思ったけどアニメ1話の原作理解が深かった。ヤマシタトモコは時系列を転倒させて千切ってバラバラにして再構成させたらわりと右に出る者がないほど上手いから、それをアニメ1話時点でさらに原作再構成してアニメ用に効果的にバチコンとキメてきて、くらいました。
喜安さんの仕事に称賛。
昔喜安さんがプロデュースした短編アニメ集のことを最近思い出しているのだけど、こういうのを掘り返すのは良くないかもだけどあれとは全然真逆の世界を『違国日記』で描ける人になっていることが嬉しかった。
それで嬉しかったのは原作のエグみを多少軽減させている点で、5話での槙生ちゃんのセリフから「慰めスタイル」を抜いてくれて、ささくれだった心の私が安堵しました。
それでねー、問題のささくれですが。
また原作を1から読み返してみて、私自身が「侮られ、見下される」子どもの劣位性に対して鈍麻してきているなと思った。
それがさみしかった。
私はかつて子どもと侮られることへの怒りが体に充満していた。だからこそ3年前はこの作品にざわざわしていたし、怒っていた。
でも今はささくれがなめらかになっている。
朝がこんなにも遠くてわからなくてさみしくて絶望している槙生ちゃん相手に「あのとき槙生ちゃんが言ったこととかー/もっとずっとあとで意味がわかるのかなって最近思った」(9巻)と平気で言えてしまう素直さが、あの頃本気でわからなかった。
お前まじか? そんなに槙生ちゃんに都合よくていいのか? と思っていた。
こんなに見下されているのに。見下していることを槙生ちゃんは自覚していないのに。
今は少しわかる。少なくともざわざわしない程度には。素直な人はいるのだということを、わかるというか知っている。
今でも槙生ちゃんのことは卑怯で卑小で臆病で「それでも」と口だけで言うのが尚悪い有言不実行者という認識はある。
特に最終巻は今でも最悪だと思う。己の愛を引き受けよ。
でもそこに至るまでの過程は素直に、良いなと思った。
怒りはなかった。あんなに軽侮に敏感だった私はいつのまにかいなくなっていて、槙生ちゃんはただ雑で繊細で子どもで大人で、朝はただ無神経だけど素直に槙生ちゃんを受け入れられる、不可逆に世界を奪われた度量の広い思春期なのだと思えた。
自分の変化が良いことなのかそうでないかはわからない。たださみしくはあった。
それで今書きたかったのはこのヤマシタトモコの右に出る者がない技術力と、刺さって抜けない氷の棘の作家性についてですね。
技術力について。
時系列撹乱再構成って基本苦手なの私は。覚えてらんないから。
でもヤマシタトモコのはすんなり読める。覚えていられる。凄すぎ。
この技術を多用しているにもかかわらず全然飽きないし邪魔にならないのが凄い。(し、だから9巻42話の順時系列がこれまた光る)
7巻の↓このページの凄まじさ。磨き抜かれた技術の結晶だよ。

いやーここからの一連の流れがこの漫画の頂点だ。いや個人的なピークは10巻の「約束して」なんだけど、7巻のこれは、なんでこんなことができるんでしょうね?
まず、ひとつひとつのセリフが鋭利だから記憶に残る。ここがいちばんのハードル。それとつながるのが、ヤマシタトモコの文学性、モノローグのうまさ。この時点で誰にもできない離れ業。
そんで1巻で示したテーマが作品全体に通底している。「子どもが守られない社会で、それでも子どもを守りたい」みたいな祈りがそれ。
「盥は」がその祈りの象徴であることはすぐ理解できる。わかる。
このページに至るまでの過程も丁寧なんだよね。
コンコースで歌うことになる朝の自意識や成長や槙生ちゃんとの関係性がまずある。して千世の久々の登校。千世と朝が絶望に同調する。だからこそ朝は千世を希望へと同調させることができた。1話ごと、章ごとの主題のまとめ方も上手い。
「無垢でなくていい」「わたしが許せないからしたことであって」は直近の話またはシーンに配置されていて、すぐ思い出せる。子どもを守ること、心を摩耗せずに感じきること、人のために何かをすること、社会を変えること、芸術の役割が会話劇によって自然に伝わる。またその会話劇のつなぎが巧みなんだわ。
「なりたいものになりなさい」は序盤繰り返された母の矛盾含む愛情で、でも子どもを守ろうとしている意思だけは一言で伝わるセリフ。
そういう前提がたくさんあって、
幼さを失う
↓
無垢でなくていい
↓
優しくはない世界から守られていた(なりたいものになりなさい)
↓
わたしが許せない
↓
盥は
↓
こんなの許せない
と、するするつながる連想ゲーム。
回想内の「わたしが」とモノローグの「わたしが」で並列整理するのも読みやすさが上がる。
やーーこのページの凄さを分解しようと思ったがなんか全然うまく言えんな。
氷の棘について。
ていうか、ヤマシタトモコって内面化された冷笑をどうしても描かずにはいられなくて、それを制御しようとしている作家だなと思った。
それこそ7巻の森本千世を「演説」と言わせ、「なにあれ キレてる こえっ」を挟まずにはいられない。
この茶化しがあると、読者としては、ざわつかない。一歩引いていいんだよと言われているようで安心する。
その「客観性」は上手い漫画家ならみんな持っている。何かの思想に肩入れしすぎないように、反対のことを言わせるキャラを必ず配置する。
ヤマシタトモコのそれもその一貫なのだが、なんというか……上手い漫画家が客観性担保のためにやっているというよりは、それもそうなんだけどそれが行き過ぎてもう癖になっている感があるというか。うまく言えない。
あーだからなんかね、「本気になるとか熱を入れるとか真に受けるとかはダサい」っていう価値観を漫画全体からすごい感じるんだよね。没入しないようにしている。
それが他のところにも表れている。例えば多用される「うける」というセリフや、槙生ちゃんの朝見下しに。
そしてそして最大の武器である時系列撹乱再構成こそはこの非没入と地続きだ。
読者にのめりこませないやり方なんだよね時系列撹乱って。その場面だけに没入させないやり方。
非没入がベースにある、なのに、非没入的感性を覆そうとしている。ねじれてるんだよね。
ダサい……って思ってるけど! 恥ずかしいけど! それで終わっちゃいかんでしょ! をやろうとしている。
非没入を経てから没入へ向かうのが作品の醍醐味。
そのやり方で響いたのがフルカウントから渾身のストレートしかもインロークロスファイア7巻なんだけど、それがはずれてフォアボールになってるのが最終巻だと思う。(野球で喩えてみたかった。これが茶化しです、けど、伝わらんのでアマチュア以下である)
なんか、嗤う日本の「ナショナリズム」/北田暁大 - 真昼の淡い微熱で言うところの「笑えない左派のシニシズム」的なんだな。ちょっと違うか?
ヤマシタトモコは内面化された冷笑に抗おうとしている。非没入をもって非没入に抗おうとしているところがねじれていて、だから限界が見えてしまう。
それもある種いとおしいと言えるようになったし、それがあってこそ磨かれた技術力だと思うから良い。少なくとも「こえっ」を挟んで尚女性差別への怒りを叫ばせる漫画は必要だ。
非没入自体はSNS時代アプリ時代の漫画の悲しい性でもある。ファン以外の読者の声が届きやすくなったことの弊害なんだろうと思う。
『違国日記』にもその影響は感じるんだけど、ただヤマシタトモコってそれ以前のノンポリ的な空気のほうが比重は重い気がする。
もしかしたら2chニコ動文化とかの時代の影響かもしれない。まあ私はそんなに昔の作品は読んでないから時代比較はできないんだけど。
……ていうことを、久々に『スニップ,スネイル&ドッグテイル』を読み直しても改めて感じた。
『違国日記』7巻の例のページと一連の流れがあまりによかったので、ヤマシタトモコの時系列撹乱再構成傑作といえばやっぱこれでしょ!! と勢いで読み始めたらのっけから「ホモ同棲かと思われんべーないわー!!」なんだもん笑ったわ。それを描かずにいられないんだろう。(いや、たぶん、今だったらこのセリフにしない気がするけど。これもう15年前の作品だしな)
久々に読んで思ったけど再構成傑作はもう『違国日記』に取って代わってしまっていた。