真昼の淡い微熱

感想ブログ

違国日記 全11巻/ヤマシタトモコ

このブログを読めばわかるが私は違国日記のことを考えつづける人になっている。
違国日記〜8巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱
違国日記10巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱
違国日記11巻/ヤマシタトモコ - 真昼の淡い微熱

アニメがさ、良かったのです。特に1話が。
今思ったけどアニメ1話の原作理解が深かった。ヤマシタトモコは時系列を転倒させて千切ってバラバラにして再構成させたらわりと右に出る者がないほど上手いから、それをアニメ1話時点でさらに原作再構成してアニメ用に効果的にバチコンとキメてきて、くらいました。
喜安さんの仕事に称賛。

昔喜安さんがプロデュースした短編アニメ集のことを最近思い出しているのだけど、こういうのを掘り返すのは良くないかもだけどあれとは全然真逆の世界を『違国日記』で描ける人になっていることが嬉しかった。
それで嬉しかったのは原作のエグみを多少軽減させている点で、5話での槙生ちゃんのセリフから「慰めスタイル」を抜いてくれて、ささくれだった心の私が安堵しました。


それでねー、問題のささくれですが。
また原作を1から読み返してみて、私自身が「侮られ、見下される」子どもの劣位性に対して鈍麻してきているなと思った。
それがさみしかった。
私はかつて子どもと侮られることへの怒りが体に充満していた。だからこそ3年前はこの作品にざわざわしていたし、怒っていた。

でも今はささくれがなめらかになっている。
朝がこんなにも遠くてわからなくてさみしくて絶望している槙生ちゃん相手に「あのとき槙生ちゃんが言ったこととかー/もっとずっとあとで意味がわかるのかなって最近思った」(9巻)と平気で言えてしまう素直さが、あの頃本気でわからなかった。
お前まじか? そんなに槙生ちゃんに都合よくていいのか? と思っていた。
こんなに見下されているのに。見下していることを槙生ちゃんは自覚していないのに。

今は少しわかる。少なくともざわざわしない程度には。素直な人はいるのだということを、わかるというか知っている。
今でも槙生ちゃんのことは卑怯で卑小で臆病で「それでも」と口だけで言うのが尚悪い有言不実行者という認識はある。
特に最終巻は今でも最悪だと思う。己の愛を引き受けよ。

でもそこに至るまでの過程は素直に、良いなと思った。
怒りはなかった。あんなに軽侮に敏感だった私はいつのまにかいなくなっていて、槙生ちゃんはただ雑で繊細で子どもで大人で、朝はただ無神経だけど素直に槙生ちゃんを受け入れられる、不可逆に世界を奪われた度量の広い思春期なのだと思えた。
自分の変化が良いことなのかそうでないかはわからない。たださみしくはあった。

それで今書きたかったのはこのヤマシタトモコの右に出る者がない技術力と、刺さって抜けない氷の棘の作家性についてですね。

技術力について。
時系列撹乱再構成って基本苦手なの私は。覚えてらんないから。
でもヤマシタトモコのはすんなり読める。覚えていられる。凄すぎ。
この技術を多用しているにもかかわらず全然飽きないし邪魔にならないのが凄い。(し、だから9巻42話の順時系列がこれまた光る)

7巻の↓このページの凄まじさ。磨き抜かれた技術の結晶だよ。

『違国日記』7巻/ヤマシタトモコ

いやーここからの一連の流れがこの漫画の頂点だ。いや個人的なピークは10巻の「約束して」なんだけど、7巻のこれは、なんでこんなことができるんでしょうね?

まず、ひとつひとつのセリフが鋭利だから記憶に残る。ここがいちばんのハードル。それとつながるのが、ヤマシタトモコの文学性、モノローグのうまさ。この時点で誰にもできない離れ業。
そんで1巻で示したテーマが作品全体に通底している。「子どもが守られない社会で、それでも子どもを守りたい」みたいな祈りがそれ。
「盥は」がその祈りの象徴であることはすぐ理解できる。わかる。
このページに至るまでの過程も丁寧なんだよね。
コンコースで歌うことになる朝の自意識や成長や槙生ちゃんとの関係性がまずある。して千世の久々の登校。千世と朝が絶望に同調する。だからこそ朝は千世を希望へと同調させることができた。1話ごと、章ごとの主題のまとめ方も上手い。

「無垢でなくていい」「わたしが許せないからしたことであって」は直近の話またはシーンに配置されていて、すぐ思い出せる。子どもを守ること、心を摩耗せずに感じきること、人のために何かをすること、社会を変えること、芸術の役割が会話劇によって自然に伝わる。またその会話劇のつなぎが巧みなんだわ。

「なりたいものになりなさい」は序盤繰り返された母の矛盾含む愛情で、でも子どもを守ろうとしている意思だけは一言で伝わるセリフ。

そういう前提がたくさんあって、

幼さを失う

無垢でなくていい

優しくはない世界から守られていた(なりたいものになりなさい)

わたしが許せない

盥は

こんなの許せない

と、するするつながる連想ゲーム。
回想内の「わたしが」とモノローグの「わたしが」で並列整理するのも読みやすさが上がる。
やーーこのページの凄さを分解しようと思ったがなんか全然うまく言えんな。




氷の棘について。
ていうか、ヤマシタトモコって内面化された冷笑をどうしても描かずにはいられなくて、それを制御しようとしている作家だなと思った。
それこそ7巻の森本千世を「演説」と言わせ、「なにあれ キレてる こえっ」を挟まずにはいられない。
この茶化しがあると、読者としては、ざわつかない。一歩引いていいんだよと言われているようで安心する。
その「客観性」は上手い漫画家ならみんな持っている。何かの思想に肩入れしすぎないように、反対のことを言わせるキャラを必ず配置する。
ヤマシタトモコのそれもその一貫なのだが、なんというか……上手い漫画家が客観性担保のためにやっているというよりは、それもそうなんだけどそれが行き過ぎてもう癖になっている感があるというか。うまく言えない。

あーだからなんかね、「本気になるとか熱を入れるとか真に受けるとかはダサい」っていう価値観を漫画全体からすごい感じるんだよね。没入しないようにしている。
それが他のところにも表れている。例えば多用される「うける」というセリフや、槙生ちゃんの朝見下しに。

そしてそして最大の武器である時系列撹乱再構成こそはこの非没入と地続きだ。
読者にのめりこませないやり方なんだよね時系列撹乱って。その場面だけに没入させないやり方。

非没入がベースにある、なのに、非没入的感性を覆そうとしている。ねじれてるんだよね。
ダサい……って思ってるけど! 恥ずかしいけど! それで終わっちゃいかんでしょ! をやろうとしている。
非没入を経てから没入へ向かうのが作品の醍醐味。
そのやり方で響いたのがフルカウントから渾身のストレートしかもインロークロスファイア7巻なんだけど、それがはずれてフォアボールになってるのが最終巻だと思う。(野球で喩えてみたかった。これが茶化しです、けど、伝わらんのでアマチュア以下である)

なんか、嗤う日本の「ナショナリズム」/北田暁大 - 真昼の淡い微熱で言うところの「笑えない左派のシニシズム」的なんだな。ちょっと違うか?

ヤマシタトモコは内面化された冷笑に抗おうとしている。非没入をもって非没入に抗おうとしているところがねじれていて、だから限界が見えてしまう。
それもある種いとおしいと言えるようになったし、それがあってこそ磨かれた技術力だと思うから良い。少なくとも「こえっ」を挟んで尚女性差別への怒りを叫ばせる漫画は必要だ。 

非没入自体はSNS時代アプリ時代の漫画の悲しい性でもある。ファン以外の読者の声が届きやすくなったことの弊害なんだろうと思う。
『違国日記』にもその影響は感じるんだけど、ただヤマシタトモコってそれ以前のノンポリ的な空気のほうが比重は重い気がする。
もしかしたら2chニコ動文化とかの時代の影響かもしれない。まあ私はそんなに昔の作品は読んでないから時代比較はできないんだけど。

……ていうことを、久々に『スニップ,スネイル&ドッグテイル』を読み直しても改めて感じた。
『違国日記』7巻の例のページと一連の流れがあまりによかったので、ヤマシタトモコの時系列撹乱再構成傑作といえばやっぱこれでしょ!! と勢いで読み始めたらのっけから「ホモ同棲かと思われんべーないわー!!」なんだもん笑ったわ。それを描かずにいられないんだろう。(いや、たぶん、今だったらこのセリフにしない気がするけど。これもう15年前の作品だしな)
久々に読んで思ったけど再構成傑作はもう『違国日記』に取って代わってしまっていた。

THE BOYFRIEND シーズン1、シーズン2

えなんか超よかった。
超よかったと思うと思ってなかった。
ちゃんと誠実に作られた恋愛リアリティショーだ。
と思ってたら、キャスティング時点でひとりあたりの面談7回とか聞いて、そりゃ成功するはずだと納得した。
そりゃそうだ。全世界にオープンリーにさせてしまうなら、制作側はそれ相応の準備とフォローが必要。
ということをきちんとわかっている構成だった。
恋愛リアリティショー、ちゃんと見たことがあまりないから、どこを見てそう捉えたか言えないんだけど。
いやでも「引っかかるところが全くなかった」という一点で評価に値するだろ。

スタジオコメント、最初警戒して見てたけど、セクマイを軽んじたり揶揄する言葉が一切なくて2,3話あたりから安心しきっていた。
徳井の「夕日が沈む前にー!」とか超よかったもんね。
いやでも「次はお天気のニュースです」とかの茶化しはやっぱ、引っかかるかも。

シーズン1はもう有無を言わさぬダイとシュンで。
こんななんか……これは萌えていいんか? え? と戸惑う。でもちょっと萌えてしまう。
シュンの気まぐれさでダイを振り回すところに衝撃を受ける。こういう人って……こういう人なんだ……!! えっそうなんだ……!?
私はこういうことされるとつい「こいつ何考えてるの? それをすることで私に何を思わせたいの?」と勘ぐってしまうのだが、あ、違うんだと。
本能的にやっていて、それは深いところでは不安ゆえの試し行動だし二者間の権力闘争でもあるんだけど、本人の意識としては本当に今なにか考えがあってそうしてるわけではなくてその時々の感情でやっているんだ……。思わぬ勉強になった。

そんでテホン〜♡でした。
アランが来た日のダイとの議論、同性愛の権利をデモンストレーションする必要があるということを、きちんと言ってくれる。テホン〜♡
でもそういう言い方になるよね、テホン、私もそうだよ。と思う。
シュンへの諭しを短い言葉でまとめるテホンのシーンがいちばん好きだ。
だからシーズン2のテホンは結局最後まで直視できなかった!
恋愛モードの親戚を目撃してしまった感覚。

ダイとテホンの議論について、「デモンストレーションする必要はないというダイの意見を入れてくれたのが(番組的に公平で)よかった」みたいな感想を見かけて怒っている。
お前が言っていいことではない。それは権利を叫ぶマイノリティを見てざわつきたくないお前の我儘を肯定されてお前が安心したいだけだろう。
ダイの葛藤を理解しないくせに表層だけ掠め取るな。

ダイのデモはこの番組に出演することだし、YouTubeやSNSをやることなのだ。実際一役買ってはいるだろう。同性愛はなんら特別なものではないのだと、違えようなく伝えるのにこの上ないコンテンツだ、リアリティーショーは。
どうか、声高に権利を主張することも、否定しないでいてほしい……。
しかしまあ私含む萌え消費者に消費されることを厭わない(むしろ感謝する)心性には衝撃を受けつづけている。



シーズン2はテホン、フーウェイ、ヒロヤと、ジェンダースタディーズに親和的とわかる方が少なくとも3人いてよかった。
負けたくねえよな、いやごめん「な」と肩を並べられる人生ではないが私は。
それでも二丁目への偏見があるという言い方を選んでしまうことも人間の難しさである。
イザヤとウィリアムがナチュラルに結婚を選択肢に入れていることが羨ましかった。バルセロナなら、anywhereな職なら、できるやん……。

グリーンルームはユートピアである。
同性が恋愛対象であることを隠す必要がなく、さらには相手もそうであることを互いに認識しあって複数名で日常生活を送れる場所なんか、基本的にはない。
どんなにか居心地がいいだろう。グリーンルームがその初めての場所になる。

視聴を始める前までは、同性間恋愛リアリティーショー、抵抗があった。
消費していいものなのかこれを?
でもこういうコンテンツによって初めて居場所を形成できるのだと思うと、(悲しさと同時に)意味があると思えた。
番組終了後もつづく仲間意識のようなものは、もちろんそこで篩にかけられた人間性も前提にありつつ、かけがえなさの濃度が濃いように見える。
シーズン2への応募が殺到したと聞いたがそれはわかる。

同性恋愛にはロールモデルがない、だから別れやすいって言うけれど、カズユキが元鞘に収まるまでの流れってなんか違う。
別れには確かにロールモデル不在問題があったと思う。けど、戻ったのは「ロールモデルを見つけたから」ではないよね。


カミングアウト問題。
どこまでも付きまとう問題でありながら、そこで「家族関係」に終始してしまう限界は、もしシーズン3があるなら突破してほしいな。
家族を含む、社会の話だから。
それでもフーウェイとボミの労りあいはすごくよかった。
そんなのさ、この社会との落差大きいユートピアだから、グリーンルームだからさ、言えたし、受け止めたし、泣けたんじゃん。
ボミの押し殺した涙は、いろいろな感情があるだろうけれど、大きなところで重なるからでもあるじゃん。わたしとあなたが抱えるおなじ傷が共鳴して生まれたシンパシー兼エンパシーじゃん。

セクマイと社会についてもそうだけど、それより更に後景化していたのが民族と社会の問題だ。
セクマイについては未公開映像で補完してたりするけど、日本で民族的マイノリティとして生きることについての言及ってほぼゼロじゃない? まあ、みんながみんな困ってるだろと断定することも暴力だけど。セクシュアリティであんま困ってないジョウブが居心地悪くなったように。

小さい頃は、神様がいて

今唐突に思い出した。昔山戸結希が「女の子が道で会うと、奇声を上げて駆け寄るのは、」「終わりゆくものへの会釈なのだ」と書いていた。(あの娘新聞平成24年11月号)
お別れのハグ。あなたがこんなに好きで、全身で好意を伝えなければならないのは、いつもそこに別れが潜んでいるから。
「あなたに会えるといつもさみしい」

なおしほのアホみたいないちゃつきは、そのお別れへのカウンターである。
女と女の恋には死がつねにそばにある。大好きだよ。大好きだよ。一生。ほんとに?
疑いがべっとりとまとわりつく。だからこそカウンターをやらねばならない。


「死ぬなら愛を伝えるべきだ。全力で」は真である。
逆必ずしも真ならず。なのに、
「全力で愛を伝えるならば、死がそばにある」。
そう見えてしまう。

これをなおしほは、あたりまえに、逆必ずしも真ならず!と叫んでいるのだ。

「全力で愛を伝えるならば……一生一緒!!!」


放送期間中たぶんずっと、都内の駅のホームドアにこのドラマのCMが乱打されていて嬉しかった。なおしほがナチュラルにカップルとして登場しているのだ。私も平静にそれを眺めていた。胸がざわざわしない。ただ嬉しい。



ま、それはそれとして。
途中からは慣れたけど、最初はこいつらのアホっぷりに辟易した。
これはこれで人間として描かれてない。
かろうじて他の人と話すときは人間だからまあ、慣れたけども。


そもそもが、ドラマ全体の評価として、展開もエピソードもセリフも全然好きじゃないけどキャラたちへの愛着は次々湧いてきたので見ていられる、という感じ。
ふしぎな感覚。号泣ラジオ体操回とか特に。

ホームドラマとしてキャラに愛着湧かせたらまあもう充分だろう。役者さんはみんなよかった。雰囲気が。
でもねー。
あんはまだ渉にどうこう言える立場だからいいとしても、たそがれステイツメンがみんな渉を軽んじてるのが不愉快だったなあ。
ご近所に夫婦喧嘩事情筒抜けとか嫌すぎる。
あと、順は、虐待受けたとまでは言わないけど、アダルトチルドレンでしょう。子どもなのに大人にならざるをえなかった子ども。
それなのにあんがやっと自覚したと思ったら早々に本人にぶちまけて己の罪悪感を解消させてくれと無意識に縋って、それで順はまた都合よく罪悪感を消してくれるわけ。模範解答。
この順搾取構造は見ていられなかった。

渉があまりに物分かりがよいところもずっと違和感ではあったけど、まあこれは『あのこの子ども』の宝みたいな役回りで、男がどう立ち回るべきかを示すためなのかなと思う。

他にもいろいろ相容れないところはあったけど、同時にキャラへの愛着が発生してくるから、ふしぎな感覚で見ていた。
並行して『アンナチュラル』を見てたんだけど、ヒール役が北村有起哉さんだなんて全く気づかなかった。振れ幅凄い……役者って凄い。

最終回近づくにつれてどんどん離婚しなくなりそうだったからはらはらした。
全然私もこういうやつは「離婚しないで~」って思ってしまうほうなんだけど動機が動機だから、これで離婚しなかったらかつてのあんの決意が救われないだろ。

結果、離婚はするけどたそがれステイツには戻ってくる。
うーん???
まあ、いいかあ。


キッチンカーの落とし所は良かったな。たそがれステイツメンがカンパしたくなる気持ちも、それが負い目になってしまうからと断る気持ちもわかる。
でもそれぽっちも投資できないなおしほの経済状況、親親族とも縁切れてんか? という不安定さ、悲しい。
カップル両方不安定職百合は、もっとほしい。いくらあっても足りない。

順とゆず、この年齢、年齢差の異性できょうだい設定なのって意外とあんまり見ないから嬉しかったな。

あ、あとユーミンの『花紀行』初めて聴いたけどめちゃくちゃ好みでびっくりした!
すぐ覚えて口ずさんだ。
紅白で聴く『天までとどけ』も耳に馴染んでいた。

PERFECT BLUE(パーフェクトブルー)

これで今敏監督作は『千年女優』『パプリカ』『妄想代理人』につづいて4作目視聴。

最初に見たのが『パプリカ』だったんだけど私は当時筒井康隆ドハマり期だったので原作の夢現さに形が与えられてしまいコレジャナイ感で不満だった記憶。

『妄想代理人』は好きだった。
けど視聴当時の自分があまりにも状況合致でキツかった。今ならもっとフラットに見れると思う。

『千年女優』はいちばん微妙。

ときて、これ。
90年代エログロアングラサブカルだあ。
痛いの嫌だから後半ほぼ画面見れなかった。つらい。

インティマシーコーディネートなにそれ時代のレイプシーン撮影、くそつらかった。
あのですね、ルミちゃんがつらそうな反応をしてくれたことによって多少救われたし、脚本家が殺されて、多少胸もすいたんだけども。
けれども私は俗物なので、単細胞ポルノ脳スイッチが入り、裸が見たい!とどこかで期待してもいる。
そしてその期待に応えてくれる映画なんである。
エログロアングラサブカル90年代だな、と思う。
ちらと見た限りではこの欲望についてネットに書いてる人はだれもいない。倫理に反するからね。
でもポルノとして描いてない、ポルノとして受け取ってないなんて嘘。
未麻がそれほどつらい思いをしていることがきちんと描写されて、そのつらさに釣り合うように関係者がきちんと?殺されて、ルミちゃんや内田が思いを代弁してくれるからこそ、その徹底した描写が、ポルノとして見る気まずさを緩和してくれる。
罪悪感ある窃視願望者を慰撫する面倒くさいオタク向けポルノである。
まあ、大概のレイプシーンなんてポルノですからね、単純に。
レイプシーンを見るといつも上野千鶴子の映画批評を思い出す。なんの映画だったかは覚えてないんだけど。普通の映画は嫌がる女を執拗に撮影するが、その映画は女から見た景色つまり加害者の男だけをカメラに収めると。撮る・見る権力性の暴き。
その意味でこの作品は凡庸なポルノ映画だった。
私もそれを望んだ。未麻かわいいしね。まあ90年代サブカルだから呑気にそう思える。もちろん現代のメディア環境で新作がこれだったら無理だよ。
現実芸能界でこういう被害に遭ってきた人はいるんだろうと思えばいつの時代もやるなよという話だけど。

今敏の話なんですが。
途中、夢と現実が混ざっていくところはテンション上がった!
これこれこれですよ。
未麻は演じているだけなのか、それとも自分を役者と思い込むことで心を守る精神疾患を患っているのか?
この浮遊感。
正直『千年女優』はこの感覚を味わえなかったから評価してないんだと思う。
この感覚にさせてくれた時点で成功です。
だからこそ最後ルミちゃんという「答え」が出てきたのはちょっと冷めてしまった。
白黒つかないほうが面白かったから。

ラストの「私は本物だよっ」、ほっとした。だ、だよね? 本物、だよね?
でもあとからじわじわ、わざわざそれを一人宣言する意味……と思ってちょっと怖かったな。

絵はずっと綺麗だった。やっぱ定期的に劇場版手描きセルの気持ちよさを浴びたい瞬間ってある。
演出に不満がないことの稀有さも忘れてはいけない。




あとこれ何かの批評本で誰かが批評してたから見たいと思って、でもいざ見終わって探してみると誰のなんの批評か全然思い出せずずっとモヤモヤしてる……。
『戦闘美少女の精神分析』かなあ? と思ってるんだけど……。

アンナチュラル

ドラマ。面白かった~!
『MIU404』にはそこまでハマらなかったから期待ハードル下げてたんだけどMIUより断然面白かった。

1話、スタイリッシュ……。
二転三転するドラマづくりがあまりにも完璧。
4話、4話やるせねえ……いちばんウッときてしまった。
このラインが最大値じゃない? わかりやすさとエンタメと社会問題を両立できるのは。
正直今もLemonそんなにピンときてないんだけど4話だけは参りました。夢ならばどれほどよかったでしょう……と思えた。

石原さとみが異次元のかわいさでかわいすぎた。
gendai.media
石原さとみといえばこの記事を思い出してしまう。(今読み返してみたけど『失恋ショコラティエ』評私より的確なこと言ってるなこれ)

ちょうどリアルタイムでドラマ『小さい頃は、神様がいて』を見ていたんだけど、渉演じる北村有起哉さんが宍戸と同一人物だって途中まで全然気づかなかった。
いや~~~~なかなかにショック!
わ、渉はそんなこと言わないよ~そんな悪どい顔しないもん~~(泣)

パワハラを無害化してるのだけはだめだろと思った。
最低でも訴訟までした坂本さんがUDIラボに戻ってきてはいけないだろ。

No No Girls(YouTube版)

特に脈絡もなく突然見始めて怒涛の勢いで完走。
しいて言えば劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』を見てネオリベアイドルのことを考えていたから見た。
オーディション番組って見たことないけどサバイバルなのよな、AKB48選抜総選挙も終わった時代に競争が流行ってんのよななんでだろうな、ああでもノノガって競争ではあるけど反競争、半競争のイメージがあるな、見てみよっと。
という感じ。

見てみたら思った以上に競争疲れへのヒーリング要素が強かった。
ますます他のオーディション番組が流行ってる理由がわからなくなったくらいにはなんかみんな、競争、疲れてるよな? と……。
これは見てる側が感じる癒しであって、30人の人生を一手に引き受ける覚悟をしたちゃんみなの負担が正直高すぎて不安になる。
フォローをさ、してもらう側はこんなに包み込んでもらえたら安心するけれども。


そしてEp.1からレベルの高さに心底驚く。
えぇ? こんなに凄い子たちが日の目を見ることなくここにいるの?
ダンスの身近化と情報流通度の高まりによる熟練度の向上からきてるのか。
こんな声で歌を表現する子たちの思考や文化なんて全然わからなくって戸惑う。
でも少し見ていくと確かに良くも悪くも見知った日本にいる女の子だった。
自信なんてさ、誰かにYesって言ってもらって、それから自分の歩んだ道のりを確かめてさ、それから作れるんだ。
現にちゃんみなに叱咤激励、肯定してもらってつけた自信がパフォーマンスに表れていくのだった。
そうして、最大級のYesを貰って、腰を据えてプロの指導を受けてデビューしたHANAのメンバーたちの、自分を心から信じている内側からの輝きは美しい。
MOMOKAちゃん、確かに「場を自分色に染める」オーラがあるのはわかるのだけど最終審査のソロまで見ても輝きは本当にはわからなかった。
でもHANAになってからのMVとか動画を見ると全然違う、あこれはわかるわって思う。
ちゃんみなwithFINALメンバーのTHE FIRST TAKE見たらやっぱオーディションという場がどうしても高ストレスで萎縮させてしまうのだなあと思った。リラックスしたパフォーマンスは美しいよ。

同時に高負荷だからこそ出せるパフォーマンスもあって、3次審査のDチーム『本能』は伝わった。
後の審査でKOKOAちゃんが見送られたときのちゃんみな評は「表現の正解に囚われている」みたいな感じだったけど、『本能』のKOKOAちゃんはその枷が思い切りはずれていて、だから泣けた。

基本的に候補者みんな好きになってしまう構成で、前の審査発表では印象に残らなかった子も次でどきりとする魅力を放つから誰がデビューしても嬉しいなと思った。
MAHINAちゃん初ラップ上手すぎて笑った。
と思ったらその後はこの子が一番「人に伝える」ことを意識した発言をしているところを見せてもらえて、この考えできるならデビューするわと思った。

あとは4次審査のFUMINOちゃんのパフォーマンスが好きだったーーから残念だったけど、最後本人は悔いなくやり切った顔をしていたので嬉しい。
ASHAちゃんも審査のときより最終日のラップの精度が格段に向上していて耳に心地よかった。

あと審査が進むにつれてちゃんみなの候補者理解が深まり、必然視聴者との乖離が大きくなるのだが、比較的それが小さい3次審査のちゃんみなによる講評は「わかるわかる」と思った。
FUKAちゃんの「新学期に会ったらかわいい、好き」とかMOMOちゃんの「死なない、賭けてみたい」とか。
ノノガ通ったあと別のプロのライブを見てて気づいたら「こんな人数の前で堂々とパフォーマンスしてるプロって凄いな」「この人は結構腰が引けて負けてるな」という目で見てしまうようになった。

最終審査、凄かったなー、熱気が。
叩きつけるものが。
表現をすること、アートってセラピーなんだなって強く感じた。
CHIKAちゃんはなんかもう、恐ろしい主人公でした。
この技術力でこんだけの表現を手に入れるなんてプロでも一握りだよ。。確かに序盤応援してる上手い子たちが落とされると悲しかったけど、このCHIKAちゃんを見ると、あの子もその子も「天井見えた」と言われるのは納得させられてしまう。

みんなソロ後のコメントで、「自分と同じ人はたくさんいるはず、救いたい」と言っている。危うさもあるんだけれども、音楽に直接的に救われることを信じていることは、率直に良いな、と思う。
でもやっぱり危ういなとも思う。
Noを言われてHANAに救いを求める子たちは今たくさん、たくさんいるだろう。
その期待を、引き受けられるだろうか?
ちゃんみなは「誰の手も離さない」と覚悟を決めた。
私の生涯崇拝するアーティストは、もはや自然体で衆生救済を引き受ける器がある。
そこに、HANAは辿り着けるだろうか? 7人ならば?

その不安の一端が『Blue Jeans』のMVにあった。
一組の、ではなく怒涛の異性愛。戸惑った。
お、おう、このへんのジャンルの音楽ってセクマイ親和性が強くて、元々私はハマらんけど好きな人は多い。
はみだしものとか、マイノリティという立場の弱さから、そうではないここに私はいるんだ居場所はあるんだ的な強い肯定のジャンルだと認識している。
No No Girlsのコンセプトもそういうジャンルに親和的だったから、戸惑ったし、でも日本だよなって諦めたし、若干さみしくなったのだった。
別にHANAのメンバーに同性愛表象をしろということではなくてね。

この企画と出来上がったグループは、Noと言われた人を救う力を持ってるし、だからこそ期待されて意図せず裏切ってしまう力も持っている。
まじでノノガ見ててちゃんみな人生何回目なんだよってくらい見ている視座が高すぎておののく、と同時にちゃんみなも人生まだまだこれからの若いハードワーカーなのだよな、と思う。
事務所がちゃんみなやHANAを守って、コントロールしてほしいな、と思った。
願わくばセクマイも包摂を。

ゾンビランドサガ ゆめ銀河パラダイス

はわ~~なんでもありすぎる。
いやあ面白かった。うーんピュアな面白さは薄かったし、実際劇場出てからも微妙な気持ちは続いたんだが、なんかまあ時間が経つともろもろ記憶が削ぎ落とされてなんか、山盛りで面白かったような気がする……という感情が残った。
気球花火も、最後のライブも、映画館で見れてよかった。

天文研究所にフランシュシュが籠城したときの「こんな人類の危機に瀕して歌って踊れるだけのアイドルに何ができる?」→「肉弾戦です!!」が熱くって滾った。
それまで溜めて溜めて……だったから、抑圧と解放の気持ちよさ。
それでこそゾンビランドサガ。
……が一瞬でそのシーン終わってメタギャグになってしまったのが消化不良だった。
あとの花火気球、宇宙船戦闘も映画館映えして楽しかったけど、一回萎んでしまった気持ちはもはや滾らず。

あと、リリィちゃんのパピィがリリィちゃんの横で誇らしそうにしてるカットと、サキが「れい……マリアの母ちゃん」の一瞬のシーンに唯一泣いた。


TVシリーズ感想で、『ゾンビランドサガ』はオタクアニメの象徴だと言った。
・弱い少女に自己の傷と癒しを仮託する系戦闘美少女
・マイノリティの包摂
・上記2要素が、うっすらネトウヨ的保守性と結びつく

戦闘美少女はあまりにもまんま戦闘していて面白かった。
そうなんですよ、アイドルとは、特に2010年代アイドルとは戦闘美少女なので、そこがシームレスに接続するのは当然なのです。

マイノリティ性。
たえちゃんの覚醒と、再びのゾンビ化。
これも、そうだろうと思った。
「マイノリティがマジョリティに変貌することで社会に馴染む」ことを、オタクアニメは忌避する。
マイノリティがマイノリティのまま包摂されるコミュニティをこそ求める。
その欲望はもちろん、視聴者のマイノリティとしてのアイデンティティからくるものでもある。
が、もうひとつ、TVシリーズ二期でも見せた"未熟性の肯定"への欲望も関わってくると思う。
社会が求める「大人」や「成長」が実現できないから、未熟なままでいいよと肯定してほしい。だからたえちゃんが覚醒して大人になんてならないでほしい。
マイノリティのアイデンティティと"未熟性"は密接に関わっている。なぜならマイノリティは社会の設定する大人になれないから。
例えば障害者は、健常者の基準で定められた働き方が難しいから金を稼げず「自立した大人」になれない。
例えば同性カップルは、異性婚して子を産み育てる「まともな人生」を歩めない。
それが未熟だと言うならそれでいいよ、未熟なまでいい。

時にその未熟性への執着は、「そんな人でも社会の一員である」事実から逃れようと倫理さえ放棄するトリガーになりうるけど、まあここではどうでもよい。
ともかくオタクアニメにおいてマイノリティの包摂は、このような文脈を負っている。
だからたえちゃんは元に戻らねばならなかった。
あとそこともつながるけどオタクは愛着したキャラが変わることを嫌がるからね。キャラにはキャラ(イデア)のままでいてほしい。

そんで、そんでね。
ネトウヨ的保守性と結びつく、についてなんだけど。
なんか……微妙に結びつかなかった!
前提としてネトウヨ的保守性って別に国家への忠誠に留まらないと私は思っていて、だからTVシリーズで見せた、特に明治編での佐賀への郷土愛もナショナリズムの相似形だと思う。それはアニメに限らないポップカジュアルナショナリズムの一貫でもあると思うし。
そういう意味では今回も佐賀へのナショナリスティックな感情は全面に描かれていた。
ただし、今回特殊だったのは国家政治が登場したことだ。
ハラハラした、おっついにカジュアルナショナリズムが国家礼賛と接続するか?

そしたらなんと国家は何もせずに終わってしまったのだ。
これをどう読むか。
無政府状態。政治不信。国は何もしてくれないがゆえの自己責任と、自治
元よりゾンビランドサガはネオリベアニメで。
勝者総取りで敗者は搾取され政府による福祉は脆弱。だからこそ死んだら終わりが当然な社会で、それでも死んでも生きて勝ってやる。という意味で、ネオリベアニメ。
それがついに明示されたのだ、政府は何もしてくれやしないこと、それゆえ自治を執るしかないことが。

パロディ元である『シン・ゴジラ』と比較すると。
シン・ゴジラ』は民主主義の遅滞性を皮肉り、内閣府の無能性を葬り去ったあと、与党の範囲内においての周縁者(はぐれもの)が国を救った。
揺れはありつつ国家権力が機能するのが『シン・ゴジラ』。
ゾンビランドサガでは、もはやそんな中央国家権力そのものが形骸化する。結局自治しか、自分たちでやるしかないのである。

これだけをもってオタクアニメがナショナリズムから抜け出したなんていうのは拙速だろう。
ただ、高市政権に集まる期待というのはなんか、自分でやるしかないなんてもはや自明すぎることが土台にあるんだろうなとは思う。
そもそも高市政権が解散総選挙をしないことから見ても、もはや期待そのものが集まっていないと政府も肌で感じているのか。

とにもかくにも自治
それも、人口減少の日本で見捨てられていく地方自治の、共助だった。
そこではゾンビは線引されながらも「ゾンビならでは」の特性を活かして地域コミュニティに貢献することで受け入れられていく。
震災も、宇宙人侵略も、理不尽なことばかり起きる。先は見えない。
そこで立ち上がるみんなの姿はもはや新鮮ではない。悲しくなるほど最後の花火という感じだ。
ネオリベが行き詰まって出てきたのは結局コミュニティなのだ、という、宇野常寛が悲しく批判しそうな結論も含めて、悲しい最後の花火。

愛の「大丈夫、私がフォローするから」はカジュアルに萌えたし、最後の巽が嫌じゃって号泣するところも良かったな。

ゾンビランドサガ全12話 ゾンビランドサガリベンジ全12話

一期最終話でやっとわかった。
やりたいことが。
格差が拡大しつつある2010年代の日本で。「負け組」の冴えない自己意識が浸透しきった社会で。
負けても、負け続けても、ついに死んでさえ、それでも負けないと叫ぶ奇跡を描きたかったんだ。
ゾンビとアイドルと佐賀、突飛な組み合わせで出落ちにならないのはこのコンセプトが太かったからだ。
見てる間中、ほんとに2010年代、ももクロ以後のアイドルだな~と思っていた。
取材対象にクレジットされるのも2010年代を率いていたアイドルたちだし。二期ではでんぱ組もクレジットされていて、そうでしょうよと。
負けても負けても立ち上がる。ネオリベアイドルだ。


ゾンビランドサガ』って日本の深夜アニメの象徴のような作品だと思うのね。
弱い少女に自らの代理として戦わせる、戦闘美少女。弱くて可傷性のある存在だからこそオタクは自らを投影できる。

そして、マイノリティ性。
「オタクアニメ」って、一般に思われているよりずっと多くマイノリティ表象を扱っている。
その描き方はお世辞にも良いとは言えないんだけどともかく社会の周縁に親和しているのだ。

なんでかというと、かつてオタクはそもそもが「負け組」として扱われる、社会のマイノリティだったから。
コミュニケーション能力が求められるポストフォーディズム社会で「コミュ障」「発達障害」「知的・精神障害」を抱えていたら、金を稼ぐ機会が得られない。働いても働いても低賃金。
ゆえにアンダークラス、社会的弱者となる。だからマイノリティ表象に惹かれうる。

リリィちゃんというトランスジェンダーや、ゆうぎりという性産業従事者、またたえちゃんに託される知的障害者の隠喩はそういう文脈を持つ。繰り返すけどその描かれ方で良いとは言えない。
でも全員死んでる。負けてる周縁コミュニティだからこそ、リリィちゃん、ゆうぎり、たえちゃんはおだやかに包摂される。マイノリティが存在できる、その癒しこそがオタクアニメの持つ特効性だ。

そして、オタクアニメの特徴そのさん。
そのマイノリティ包摂に、ネトウヨ的感性がうっすら結びついているところ。
カジュアルナショナリズムとか、家父長制への憧憬とかね。
家父長制については、2010年代以降の性別不問向けオタクアニメに特徴的な、異性愛の忌避で薄らぐ。
カジュアルナショナリズムは、ほんとにカジュアルに最後にきましたね。「明治政府」という権力支配への抗争の形なので、ネーションへの忠誠心ではない。
だから本作に限ってはネトウヨというよりもっと素朴な保守性に依拠している。錆びゆく郷土を守りたい的な。

オタクアニメ、家父長制とネトウヨ的感性が下地にあるのは固まってるんだけど、その濃度によって誰向けの作品かが分かれる。
ゾンビランドサガ』は比較的濃度が薄かったから、私のようなオタク層も見れるし、より広範向けの作品になったのだと思う。


まあそんなのはさておき。
音楽の勝利よな~!
声優ユニットの一番の強みは声質違う人たちで組ませられるところ。アイドルのよさって私は声質違う人たちのユニゾンだと思ってる。声重視派。
ていうか一期OPが最強だったから二期心配したけど超えてきてかっこよかった。
挿入歌も全部クオリティ高かったし、ダンスも豪華だった。
リリィちゃんと一期パピィ回がね、私はこういう親子愛に弱いんですよ。
リリィちゃんと言えば二期で未熟さの肯定で締めるところがオタクアニメだなと思った。

こんだけみんな臨機応変にやれるアイドルグループなんてそりゃ売れるよな、という説得力があるところが気に入っている。
ポストフォーディズム的能力~、ですね。
グローバルIT環境下?でのバズりも添えて地方の外へ、はそういえば『推しが武道館いってくれたら死ぬ』でもあったな。
(でも地方アイドルってバズで全国化するより地域に根ざしたほうが息が長いんですよ)

二期はずっと「ゾンビバレするか?」で引っ張ってきたのに結局それはブラフでしかなく突然の災害でまとめたのにはだいぶ感動した。
これぞアニメならではの脚本術、でもこんなの見たことない、これぞプロクリエイターの仕事!
この突然さが自然にで受け入れられるのはもはやそういう世界だからだ。災害大国日本、とも言えるし。
それに加えて、そういうネオリベ格差社会と災害は同時展開がありうるものだから。理不尽な逆境。
『パラサイト』を引いてもいい。

愛ちゃんの死因がいちばんショックだったな。。