真昼の淡い微熱

感想ブログ

SEX EDUCATION Season4

お、面白かった。
うーーーーんこの最終シーズンはずーーっと「めちゃくちゃ面白いけど同じくらいもやもやする」が両立していた。
面白さと私が思う完璧さが完成されてしまったのがSeason2なので、3以降は完璧さが欠けていきつつも面白さは変わらず継続している状態だった。

私はSeason2の「白人男女がくっつくか?くっつくか?オーティス初挿入の相手はオーラじゃなくてメイヴか?……ルビーでした!!」が最高に痛快だったし、マイノリティの……というかマジョリティの描き方がいちばんよかった。

確かに様々なマイノリティ属性を描く意思は今回がいちばん見えてたし、オーがアジア系のスピリチュアル妖精じゃなくて人間として描かれてるのとかもよかったけど、マジョリティの描き方はうーーーん。
オーティスとエリックがずっと仲違いしてて悲しいシーズンだったけど和解がオーティス謝るだけであっさりすぎる……とか。


ていうかいちばんもやもやしてたのやっぱりオーティスとメイヴのカップリング取り扱いなんだよなーー。
メイヴはオーティスに何度も何度も失望させられてきたはずだし、メイヴを助けるのはいつだってエイミーだったりアイザックだったりジーンだったり兄の同居人だったりで、いつだってオーティスは頼るに値する伴走者じゃなくて足を引っ張るキレ男だ。
なのになぜ……いや恋人としての価値しかないから捨てられたのかと思ったほうが納得がいく……そうではないけど。
オーティスが最後まで自分のキレに向き合わないままなんかオーにも母にも丸くなっていてうーん。

アイザック、前回「このまま退場にはならねえよな」と思ってたからわりとメイン張っててよかったけど、エイミーとくっついたのはなんか恋愛させて片づけさせられた感がある……。
エレベーターと座り込みの件も、もうちょっとあの学校の校風と絡めて描いてほしかったというか、そうしないとあっさりすぎるというか。
まあ、アイザックが退場にならなくてよかったよ、本当に。
エイミーも受けた性暴力とずうっと格闘していて、受けた傷は昇華できるとすることも、消えないとすることも、どちらも嫌だけれど、これはこれで彼女の答えで。

アセクシュアルと明言されてないキャラは次々にカップル化していくのを見てまあもう頃合いなのかなと。それぞれみんなカップルだけで話が進んではいかないところはよかった。キャルが悩んで、最後にジャクソンと和解的な形になるし、エリックがそばにいるとか。
アダムと牧場の子はほんと別にくっつかんでほしかったよ。
まあそう、言うまでもないけどノンバイナリーのことが「女であることからの逃避」みたいに描かれない、そういうところは信頼してるんだよな。アビーとローマンが学校の人気カップルだったり、クィアであることの苦悩を殊更付されてなかったりキャラとして描かれていて。
オーラとリリーがいなかったのが残念。

ジャクソン母母がいっぱい出てきてよかったしその親子関係が丸くなるのはまだ受け入れられるが、アダム父もジーンも子供に許されて大団円というのももやもや~。
メイヴが母親へ複雑な感情を抱いたまま永遠の別れをするのはありだし、そういう落とし所になるよなと。
アダム父、愛では子供への不適切行為は免罪されないよ……。

今回はジーンのラジオがそれぞれよかった。最後のジーンとジョアンナの和解も。ジョアンナが結局性虐待を受けていたと認めるところも、そうだね、エイミーとはまた違う描かれ方で、幼い頃のジーンへの優越感としかし傷になってしまっている結末との塩梅も。。
セラピーへの過大な信仰というか、泥だらけ喧嘩のシーンのセラピー押し付けは暴力じゃね?とも思ったけど。
いや、ジーンとメイヴのセラピーシーンは本当によかったよ、手放しに。

そういえばエリックはSeason1あたり道化黒人マジカルゲイっぽかったけどすっかり一人の人間として馴染んでいたよね、アイザックもそうなる可能性は秘めていたのだな。
洗礼未遂のシーンが本当につらかった、打ち明けなくても、打ち明けなければ、コミュニティを失う、隠しながら洗礼を受けた仲間の気持ちも。
そういうものをオーティスと分かち合ってほしい、本当に理解することはできなくても。


とか、とか、面白さともやもや~。
これ以上続いても(というか、これ以上オーティスとメイヴのラブコメで引っ張られても)もやもやが大きくなるだろうからここらでよかった。

ドラマを通じて性教育の面ではルビーがもう圧勝でしたね。
Season1の「It's my vagina!!」は他の追随を許さぬ圧倒的名シーンだし、Season2のオーティスと一緒にアフターピル買いにいくところも大好き。
だからSeason4ラストの演説もよかった。
最初キャベンディッシュが極端に自由でリベラルな校風として登場したからいやまさか「実は極左で有害」方向には行かんよな、と思ってたらルビーが感化され輪に入るという。

三日月よ、怪物と踊れ 全6巻/藤田和日郎

結構おもしろかった~。
アクション漫画に長けすぎててノンストレスでサラサラっと読めちゃうしプロットも明快でまとまりがあるからそりゃ高満足度よ。すべてが高水準。

藤田和日郎は昔『からくりサーカス』読んでたくらいなんだけど戦闘シーンが懐かしかった……。こういう動的な美しさを絵で表現する唯一無二の作家性ね。
昔あるるかん操る妄想してたしてた。

メアリーの気丈さ、エルシィの強さ、下働きの女たちやエイダとの交流に重きが置かれたシスターフッド、そういうものはよかった。
メアリーの「怪物」を生み出した孤独をエルシィが理解して泣くとか、エイダが一瞬メアリーを軽んじて対立しかかるんだけどエルシィがふりをつなぐとか。


あの、大御所男性漫画家がフェミニズムを題材にして、「今シスターフッドものがウケるんだな」と時代をキャッチしてそれを上辺だけでなく咀嚼してちゃんと女と女の交友の話を描きあげたことは、評価すべきだと思う。
エルシィもさにありながらメアリーの強さ、コンラッド博士との時計塔の攻防は白眉だ。
動きづらいロングスカートをただ切り破るのではなくズボンに作り変えるみたいなやりようはさすがだ。

が、まあ、今必要なフェミニズムとしては御愛嬌、かな。
シンデレラ批判すなわち男に見初められて結婚こそが女の幸せという価値観に切り込むのはまあいい線いってるなと思うが、なんか基本的に男の作った価値観を絶対軸としてる部分がうーん。
個人的にはエイダがメアリーに「男どもの頼みを意地で叶えてやっても貴女には得はないぞメアリー」っていう台詞が一番おおと思ったが、なんかその台詞の前後のつながり曖昧で回収されないんだよな。
結局メアリーがそこから受け取ったのが「私はエイダみたいに男の世界で努力してない」って落ち込みで、エルシィも「努力さえできなかった人生もあるんだ」とエイダを諭しにかかる。
結果エイダのその台詞は男の作った価値観に乗っかる必要ないよ、って意味ではなくなる。

メアリーが夫の友人たちの会話に入りたいと憧れるシーンとか、「結局私は男に守られてるだけ……」と落ち込むシーンがどう回収されるかが気になって読んでたけど「努力さえできなかった」程度で終わるので、なーんか男の地位は揺らがないんだよね。

『オールザマーブルズ』でも思ったけど、女主人公が男社会で劣位に扱われるとき、私は主人公には「男には私の価値はわかるまい」くらいでいてほしいのに「女はどうしたって男に劣る……」って落ち込むのがイラっとするんだよね。
実際そういう社会でキャラ自身が自己嫌悪をインストールしてしまうのは仕方ないけど作品が肯定してほしくない。
例えば現状ラグビーのルールでは身長190cm筋肉ムキムキの人が有利だけど点取認定ルールが「相手チームの選手の股をくぐること」だったら小柄で細身で足が短い人ほど有利になるわけ。でも「身長190cm筋肉ムキムキの人」が有利になるような序列をルールが作るのだ。
作品にはそのルール設定の恣意性を批判してほしい。


閑話休題
別に男の作った権力構造を女が覆すみたいな話がほしいわけじゃないんだけどこういうとこで息をするように出てくるのは「男の作った権力構造」なんだよね。
無頓着というか、楽なんだろうかね、作劇が。
そんでその権力が全く無批判なまま終わるので微妙な気持ちになる。
エルシィが踊り子たちと戦う贅沢なクライマックスは実際美しかった。
1巻導入の踊り子たちの神秘性とかワクワクしたし。
それを作り出した親玉のとこまで話を広げると収集つかなくなるからコンパクトにまとめる思い切りのよさ自体は気持ちが良いけれど、あんなサクッと倒されるんならせめて殺る役はパーシーじゃなくてジャージダだろう。
パーシーは祖父に評価され、男の中の男となり、出世する。結局エルシィをシンデレラのように階級上昇させる。
無批判……。
モブ男たちの下卑た差別発言は現代では戯画的に映るからメイン男性キャラも作者も読者男性も立場揺らがず「女性差別」を他人事にしておけるんだよね。
差別発言が下卑ていればいるほどそれを言わないメイン男性キャラや現代男性はそいつらを切断処理できるから。
いや、シスターフッド作品は、今までほぼなかった分いくら増やしても足りないからそれだけでも価値あるよ、そこは本当に評価している。
今までの社会では女の生きる道が男との結婚にしかないと思わされていたのだから、そうじゃない展望をフィクションから与えられることには意味がある、絶対。
ただまあ、限界はあるよねという話。


それにしても「息子が曰く付きエルシィと結ばれるのが嫌で突き放してしまう」メアリー唐突だなと思ったら後半そこが基軸になってしまって感情に着いていけなかったな。

ブルーロック~26巻/原作 金城宗幸 作画 ノ村優介

まず1巻だけDMMの無料版で読んで、おおぅネオリベ極まれり……感性が古いぜ……と思ったら2018年連載開始と知って納得した。
その後『ダイヤモンドの功罪』読んだらアンチ勝利至上主義をやっていてこれは『ブルーロック』と比較したいな、と思って続刊を手に取る。

ただただ「あ、そうすね、この作品ならこうくるよね」という確認作業が読書体験だった。先鋭化されたシンプルなネオリベラリズムを展開している。
私がもともと勝利渇望達成挫折不屈逆転勝利のみで構成されるスポーツ漫画に反応する琴線を持ってないからでもあるんだけど。
このネオリベ先鋭さは『鬼滅の刃』とかの反動なのではないか、と言われててなるほどと思った。単純な信仰というよりは確かに反動ぽい。

ネオリベ世界観が行き着くところまで行ったなあ、と感慨深かったのが『進撃の巨人』で、その完結が2021年。
そろそろ3年前になる今ようやく振り返れるようになり始めたくらいだけど、あのへんでやっぱり時代の潮目も変わったよねと。
『進撃』は一番良いときに連載開始して良いときに終わった(そういう時流に上手いこと乗れたからメガヒットした)なあという印象で、同じネオリベ価値観を共有する『ブルーロック』はやっぱ時代の終わりにかち合ってしまったのかな。でも今も過渡期だしそれこそ反動勢力もあるからそこには引っかかっていて、加えて序盤のシナリオが良いからちゃんとヒットはしている。
いや琴線死んでる私にまで届くヒット自体が凄いのは凄いんだよ。10年前に始まってたらきっともっと行ってただろうなあ、というだけで。

ただ思想が合わねえ。
硬直化したおじさん文化と横並び思想への敵意、従来の構造では若者が損をするんだから自己責任でエゴを持つしかない。っていう勝利と支配、敗北と死のセット。
絵心の父殺しではなく権威主義、絵心の言いなりになって選ばれることを求めるのもきつい。潔の玲王に対する選ぶ側になれってのももうね、支配と上下関係の論理しか持ち合わせてないので。父殺しも支配と上下関係の論理なんでそれも嫌だけどね。

支配とか負けは死ぬこととか弱肉強食とか対戦相手のサッカー人生殺す支配の愉楽とか、勝利と手に入る女のグレードの連動とか、フォーザチーム=画一的指導と出る杭打つとか、あーハイハイってなっちゃった。あまりにも露骨。
潔がU-20戦で「"青い監獄"(おれたち)はU-20W杯で優勝します」から「俺が日本をU-20W杯で優勝させます」に言い換えたのとか。
でもリアリティーショー、年俸の可視化まで徹底されると、おおそこまでするかあ……と思った。
万人に対する階級闘争の世界、自己責任と自己利益最大化を追求して勝者総取り敗者はデッドのアダムスミス市場原理肯定の世界、すべてが換金されるネオリベラリズム

シンプルな感想としては、序盤は結構熱かったとこもあったけど、ゾーン概念(FLOW)が導入されて能力インフレ始まってからそのへんの面白さすら希薄になってきた感じ。
ダイレクトシュート、空間把握力、先読み、そして超越視界……とどんどん常人を超えるスキルアップしていかないと漫画にならないあたりも限界を感じる。ネオリベ流アップデートでもリスキリングでもどうとでも読める。まあきついよね、そこで生き残るのは。そこで手にする能力がメタ視野ってとこも示唆的。
ストライカーのエゴを追求する設定なので、サポート役になるキャラの処理がうーん。
当然ゴールに至るまでサポートが必要なのに黒名とか便利な脇役ごち!みたいなんでいいんか?結局蜂楽みたいな描き方にしないと輝かせられないのは根本的に設定に難がある感じ。
ああそうか、みんなが同じ思想を持ってて同じ論理で生きてるがゆえに潔の出した答えが正解になっちゃうのが苦手なのかも。皆最初に"自己責任"でエゴイスティックなストライカーになる道を選択済みだから。
だからサポート役を買って出る子がその道を進んでないということで序列下扱いになる。チームスポーツだというのにポジションごときで序列決められるのも、なのに必ず他ポジションにつく子がいなくちゃいけないシステムも無理があるわそんなの……。

「"主人公感"がキーなんだ」
 →皆ストライカーになりたいはず
 →なのにサポートに徹したがる(わざわざ序列下げにいく)奴がいるのはなぜ?
 →"主人公"感を持ちたいからだ!(そいつの中では序列の王様なのだ!)

どこまでも上下関係でしか理解してない乏しい論理でジャッジする失礼さ、乏しさに気づいてない無知さ、でもみんなその論理で生きてるから正解になるんだよね。
「どれだけ正しくても理解されないんだ」←乏しい論理を掲げる万能感にありがちな傲慢さ

8巻の馬狼照英と潔の攻防、意見が違う相手に対して議論して折衷案なりを探るんじゃなくて相手より強くなって屈服させるとことか幻想がすごいけど彼らは上下関係の論理で生きているからこれで通用するのである。
通用すると証明していく、上下関係で切磋琢磨してうまくいく展開にする点では上手いし、手を替え品を替え成功している部分だからありだとは思う、思想が合わないだけ。

ちょうど『ダイヤモンドの功罪』と対をなすシーンだねこれは。
両作とも「人間どうせわかりあえない」絶望から始まるんだけど『ブルーロック』は「戦って屈服させて認めさせる(その繰り返しで勝利へつながるところがバトル漫画じゃなくてスポーツ漫画なのですが)」で『ダイヤモンドの功罪』は「どう伝えれば暴力を使わずに共存できるか」なんで私は今圧倒的後者寄りなんですよね。
前者的世界観から見れば後者は「わかりあえると信じてる」的な綺麗事なんですけど後者的世界観から見れば支配と暴力は持続不可能な露悪なわけ。

『ダイヤモンドの功罪』のミソジニーは「ありがちだけどもったいないな」くらいなんだけど『ブルーロック』のミソジニーは露骨にわざとやってるから格好の分析対象になる。(なるほどここも反動っぽさすごい感じる。巨乳ネタとかあれは手癖の無自覚さでやってるんじゃなくてバックラッシュの文脈だと思う、女を性へと疎外させたままにしておきたい欲求)
「無能雑用」、絵心にとって帝襟は代替可能な雑用要員。代替不可能な労働に付加価値がある、という資本主義思想。ケア労働、雑用を軽視する理論的根拠をご丁寧に説明するところもまた露骨。
資本主義はその有償的価値を提供するのに必ず無償の資源を必要としているが『ブルーロック』はそこは無視する。
サッカーボールだって原材料の革は必ず無償である。
けれど莫大な金を生み出すサッカーには必ずボールが必要で、その対価は殺された動物に支払われるわけではない。無償の物資や労働があるからこそ資本は価値を帯びるにもかかわらずあたかも無限供給されるかのように無視される。ケア労働も同じ。施設の維持、食事の供給、トイレ掃除やベッドメイク、備品の管理などがなければ選手はまともに強化できない。絵心だって世話されなきゃまともに生活できないのに世話をする帝襟は「無能雑用」と軽視される。

ブルーロック計画の資金の有限性を織り込んで作劇しているのは日本経済が縮小していてその有限性を考えざるをえないからだろう。デスゲームものの『LIAR GAME』ではその金の出所は陰謀的に無視されていたし、それでもよかった時代だった。でも『ブルーロック』は露骨な換金システムサブスクや海外青田買い資本を投入して帳尻を合わせようとしている。
おそらく今後、無償物資や無償ケア労働の有限性を考えざるをえない時代がくる。現に地球の資源限界に警鐘を鳴らされているし、日本に限っても輸入依存と物価上昇、労働人口の減少で否が応でも有限性を突き付けられるから。
既に首都圏では一馬力で家族を養えないから共稼ぎ必須、となるとリソース足りずに共家事共育児問題も出てくるし、介護保険の自己負担増から介護離職問題もある。無限供給されるケア労働なんて無理、という共通認識が広まる。もうすぐ。

労働力そのものの有限性は感覚としてもうわかるはずだ。
蟲毒をしている余裕なんてない。次から次へと使い捨てにできる時代は終わった。担い手がいなくなるほうが問題になる。
サッカーは知らんけど昔は野球だって投手が登板過多で使い捨てにされていたのが今は球数制限、登板間隔調整で大事にされている。『ダイヤモンドの功罪』にだってその消耗への心配が描かれている。
そのような現実を元にしたら勝者総取り敗者デッドの切迫感にビリーバビリティがなくなる。おそらく千切の膝も都合いい鎖扱いとは異なる描かれ方をするだろう。(そこにクリエイティブの重心が置かれる時代がくる)
不可逆に時代とずれていくだろうと思う。

創作物なのだから考えなくてよい、という話ではない。創作物は常に社会の制約の中で生まれる。
『ブルーロック』が資金の有限性を考えざるをえなくなったのは社会の影響であるように、きっとこれからの創作物はほかの有限性を考えざるをえなくなってくる。

『ブルーロック』が資金の有限性に言及したこと自体はえらいと思っている。この原作者は社会のにおいを感じ取ればそれを漫画に反映させることができるあるいは反映させる義務に駆られる人だ。
リアリティーショーなんかの個人の人生や人格など従来無償だったものをどんどん切り売りしてまで資本の肥やしにする、そうまでしないともはや資本は成長しない(金を生み出せない)ことと、どんどん新しいスキルを磨いていかないと青い監獄で生き残れない潔たちの成長譚はリンクしている。原作者はその資本主義の搾取構造とむき出しの露悪をキャッチしている。
だからこそ「描かれていないもの」がよくわかる、ネオリベラリズムの外側のにおいはほとんどキャッチしていないのだなあとわかるだけ。
ネオリベラリズムが所与のかつ不変のものと疑ってない創作物も今後珍しくなると思う。いや、まあ『ブルーロック』も反動と考えれば、蠱毒システムを"メタ"的に用意して首謀者が出張っている時点で所与かつ不変とまでは描いていないのかもしれないな。
ただ「ネオリベ以外のビジョンが思い描けない、ここで生きるしかないのだ」という諦念からの焦燥感なのかもしれない、この反動は。
いやこうも考えられる、2018年から時代が変わったからこそ、敗者イズデッドのブルーロックシステムから目的がずらされて、最後の一人にならなくても世界中のチームから求人される設定になったのかも?
世界が広がった時点でずれが生じてるんだよね、すでに潔の焦燥感の理由づけが薄くなっていってる。
このずれがどう着地するかは興味深いかも。時代の変化を感じられるのか、ずれたままネオリベの論理で包括可能なのか。

冷たくて柔らか~2巻/ウオズミアミ

ウオズミさんの百合なら安心だ。女性漫画でやる百合は高品質なものもあるけど百合詐欺エンドもあるからなあ、と思いながら物色してたけど作者ウオズミさんと見るや即買った。
『三日月とネコ』は話にひねりがなさすぎて正直凡作だけど思想が合うから楽しく読めたし、セクマイ描写を見て、ああこの人わかってやってる人だと思ったから、信頼リストに入れていた。

その人が百合をやるなら読むしかないでしょう。

まあまあこの手の良い感じの夫がいるけど鮮烈な女との出会いで……路線読むの何度目や。
流行りすぎでは。
『おとなになっても』『たとえとどかぬ糸だとしても』(ちょい変則?)『雨降り晴れて花ひかる』『イベリスの花嫁』……
まあ彼氏や夫がいるパターンは王道だけど最近はこの良い感じの夫路線多いよね。

これも一瞬モラハラかと思うけど勘違いだったと。
エマちゃんわりとだだもれすぎですが大丈夫なん……?
たからがきゅんてしてるのはよかった。

ああ、そう、だからウオズミ作品だからちゃんとアイデンティティに言及していくところはよかったよね。
もっと話の広がりは見たい。

オーバーテイク!

安定の湿度でそこそこ一定の面白さを保つアニメだった。
正直まどかの写真と津波の描き方はあんまりよくないと思う、まどかをおじいさんが免罪するような。
まあでもなんか、断罪する権利は私にはないような気がして、保留する。


しかしそこそこ面白いけど誰に向けたアニメなのかが全くわからんと終始思っていた。
だから特に流行らなかったんだろう。
モータースポーツ←男車オタク向け
志村貴子←女性人気作家 私はとりあえずここから
まどか×はるか←ここがいちばんよくわからん 大人の話でも子どもの話でもなく……
男女ラブコメ←中途半端
ちょっとBL?←中途半端

まあほんと、最終話も予定調和で特に奇抜なことをすることなく順当にはるかが表彰台上がって、なんだか爽やかでよかったよ。
まどかがうざいような、でもあたたかいような、繊細なような、まあまあ良いキャラだった。
すごく大人をやるわけではないが、だからといってありがちな大人の権力に無自覚で子どもに甘えるような人物でもなく。
まあちょっとはるかに甘えてたし無断隠し撮りはよくないけど、大人と子どもの友情って感じで。

はるかの、「プロになるなら強くなれるところで強くなるべきだ、でも今はアマチュアでしかできないことをしたい」って決意がよかったな。

The Society

ラストおい、えええ?
ここまで潔すぎるぶん投げエンドはさすがに初めてみた。
それはそれでまあ勉強になった。
私はわりと過程が面白ければぶん投げエンドでもそこそこ満足するのかと……。

ようやく見たいタイプの『蠅の王』が見れたような。
本家『蠅の王』、『無限のリヴァイアス』、『7SEEDS』ときてこれが一番『蠅の王』で見たかったものな気がする。
特殊な環境で、人間の子どもたちが秩序をつくりそして壊れていく。
壊れていくのきつ~い……。
冤罪で死刑を執行するシーンが本当に本当にきつかった。むり。見れんわあんなの。
エルのパンプキンパイもイーーン誰も死なないで~~……と。

立法も行政も司法も警察も担う市民国家?の中で最初は頑張って透明性を担保しようとしてたけどエル逮捕の頃にはもう気づいたら秘匿事項が多くなってしまい民衆の不満を買い……の流れに至るまで。
アリーが不完全な統治者で、人の話をろくに聞かずに実力行使する支配タイプで、でも本人は精一杯秩序を管理しているだけで、そもそも能力の未熟な子どもが、姉を失い嫌嫌覚悟を決めさせられているだけなのだから、どちらの面もあわれでつらい。
けれども夜空のもとで「ここに来て初めて希望を持った、帰る場所がある」と宣言するシーンはいちばんよくって、やっぱり君がリーダーだと高揚感と説得力があった。

軍部によるクーデターも混乱する民衆を前に選挙で勝った対抗馬が「学んでいこう、ゆっくり」と言うしかない姿に向かって「そうなっていく、逃れられない」と言い放つアリーももっと見ていたかったけどクソ打ち切り無念!

なんか『SEX EDUCATION』とか『Dear White People』見てたから次々ヘテロカップル化していくキャラクターたちに息が詰まったけどグリズとサムでちょっとほっとした……いやカップルもういいけども……。
サムとベッカの友情もよかった……父になる覚悟……。

ダイヤモンドの功罪 ~4巻/平井大橋

面白かった~!
面白かったし、こういう作品がこのマン1位を取れる時代にようやくなったことが嬉しかった。
あの……『群青にサイレン』が売れてなかったことを思うと、時代がようやく変わったというかさ。
『群青にサイレン』との共通点として勝敗じゃなくて人間関係の機微に主題を置く野球漫画、ってのがあるが、そういう漫画の読み方を2010年代はあんまりみんなわかってなかったんだよ。
嬉しいね……。

読み味としては『ブルーピリオド』のほうが近いか。
ポストメリトクラシーの作品である。あー『ブルーピリオド』については『新しい声を聞くぼくたち』が扱っているが河野真太郎さんにぜひぜひ本作も論じてほしい。
『ブルーピリオド』はそれでも前半は、美大合格という競争に晒された中でのポストメリトクラシーを描くわけだが、『ダイヤモンドの功罪』は能力的にはあっさり主人公が日本代表のエースになるし、競争ではあっさり世界一になるつまりそれらの軸での目標は達成してしまう。

……うーん、このあっさりと重たい勝利は最初「その手のテーマは越えますよ」の証かと思ったんだけど、「フォーディズム的能力のみによる(誰も楽しくない)勝利は"十全な"勝利ではない」ってことかもしれない。
十全な勝利とは「敗け」をも包含するだろう。まだわからないけど敗けを含んだ勝利とはきっと通常想像しうる「敗けても楽しいいい思い出」的なぬるさではないと思う。
単純に考えれば次郎はNPBなりMLBなりに行って階級上昇するだろうから、そのスパンで考えた勝利である。

だとするならこの漫画の着地点は「コミュ力と感情とチームの結束を重視したポストフォーディズム的な力で、勝利を意識しないことで(結果的に)勝利する」的結末になるのかもしれない。
途中出てきた次郎の将来の試合がそれを予感させる。(その試合では敗けることも当然予測できるから長期スパンで見た勝利ね)
その勝利を裏付けるにはコミュ力、他者へのケアと配慮、チームの和、感情の尊重が必要という。

その路線である場合、「強くなるには優れた人格も備えていなければならない、優れた人格込みでの能力」という山本由伸的な、大谷翔平的なポストフォーディズム職業人が十全なる勝者である。
既に次郎が他の人と違う価値観を持ってることが「誰も見たことのない投手になる」と予感させているのがその兆しと言える。
強さを得るには従来的能力だけではもはや不十分で、次郎的「我よりチーム」「勝敗より楽しさ」価値観を"織り込む"必要があると。オリジナルの思想を持つ次郎が成長してコミュ力他者の尊重ケア力チーム力を身に着けた暁に「誰も見たことのない投手になる」と。
そもそも次郎はベクトルがずれてるだけで他者の感情へのケアに重点を置いている人物であるのがポイントな気がする。
だからこそフォーディズム的な野球スキル(動画等で学べる努力)とポストフォーディズム的な能力(元来のケア力とベクトル修正できるほどのコミュ力)が合わさったら優れた人格込みでのエースが出来上がるのだと思う。そこに「敗け」と「楽しさ」がどう合わさるかは考え中。

勝利=楽しい、敗退=楽しくないというのはメリトクラシー的感性だけど、次郎はそれを超えたいと思っている。
個人的には超えた先にあるのは構造への懐疑であってほしいし、いずれ次郎には野球を辞めてほしいけど、現代的ポストメリトクラシー神話にたどり着く可能性のほうが今のところは高いかなと思う。

ashita.biglobe.co.jp

これらの小説では、主人公の成長と階級上昇が必ず一体のものとなる。だが重要なのは、それは個人的で利己的な上昇であってはならないということだ。何らかの「道徳的正当化」が施される。階級上昇をなし遂げるのは徳の高い個人であるという形で。

というところでちょうど河野真太郎のポストメリトクラシー解説記事を見つけた。
なるほど階級上昇の道徳的正当化。
となると次郎の階級上昇は「能力と勝利を求めない利他的博愛精神」なる道徳的エクスキューズによって果たされるのかもしれない。
これはもちろん利己の能力と勝利を求めて階級上昇することが現代の道徳に反するからだ。
一方で次郎の外側では能力主義や機会の不平等さ(けれどもそれが公平だというアイロニー)、置かれた場所で咲けとか「しょうがないで済ませたら上にはいけない」的な従来の自己責任論が舞っているし、作品もそれを否定していない。
そういう従来的競争社会の論理は、圧倒的天才の存在による不条理さで綻びと疑念を生じさせる。
だからこそ次郎が階級上昇するにはその綻びを無視できるほどの道徳的エクスキューズが必要になるんじゃないだろうか。
「勝利を目的にしてないからこそ、勝っていいよ」の迂遠な承認。


さて、さて。
ポストフォーディズムスポーツ漫画よ。コミュニケーション能力の描写が細かい細かい。
コミュニケーションの失敗としての桃吾の暴力、円の潤滑油的コミュ力、椿の対外コメント力と自他を客観視する力とリーダーシップ、、
次郎と桃吾が揉めて戻ってきたときの円の繊細さよ、そこ繊細に読ませてくれるんだと感動した。
あと円への頑張りすぎるなでも我欲も出せってダブルバインドも(理屈はわかるが実際困難)、大人から子どもへの対話的指導も、すごい現代的だ。
あと私は野球観戦するようになってから選手に求められる感情管理能力の高さに慄いているのだがこの先そこも描かれることを期待してる。
野球の特徴は個人プレー度が高くて一人の責任が重い上にプレー間に結構な間があって考える時間が生まれてしまうことだと思う。そんなん切り替え難しくて当然だよ。なのに失敗しても周りに影響を与えるほど暴れてはならないし立て直さなければならない。

何より感動したのはコミュニケーションとその失敗と成功が細かく細かく描かれていること。
そ、それよ、俺が求めているものは。
なんか漫画読みながら「時代が俺に追いついたな……」って思うことが増えた。作家と同世代になったからか。
天才ゆえの傲慢キャラっていったら今まで「俺に着いてこれねえお前らが悪い」(けど本当は孤独で楽しくなくて静かに傷ついてたりする)みたいなディスコミュニケーションだったけどそこ向き合おうと思ったら「価値観の対立」になってくれるんだなって面白さ。
敗けてもいいって言葉を使わずに伝える「このチームになれてよかったって奈津緒にも思ってほしい」、こんなんSSTだろ。
次郎の問題点は自分の物差しを疑わずに人の価値観ややり方を否定してしまうところで、いやそれは俺なんだよ。
その改善に必要なのは、次郎自身が全人格的に変わることではなく、相手の価値観を尊重して言葉の伝え方を変えることである、っていう漫画なの。
こんなんもう俺が数年単位で死に物狂いで自分に向き合って体得してきた概念なんだよ……😢
これからの教育には「自分の感情を大事にしてあげて処理する方法」と「相手を尊重して伝え方を考える方法」が必要だと思ってるけどひとまず後者が描かれていて満足である。
でも最初は前者が必要だと思うのでこれからそれが描かれてほしい大いに期待してる。
次郎は人の価値観蔑ろにするけど次郎も誰からも次郎の価値観を尊重されてないのだから。唯一母親だけを受け皿にしてはいけない。

コミュニケーションが重視される漫画だから、「桃吾なら捕れると思った」と天才に認められる描写では桃吾は次郎を許したりしない。天才に認められて許すならそれはメリトクラシー社会の論理で、上下関係の中で能力を承認されて上に立つことが至上という漫画になってしまう。
桃吾が許せなかったのは自分が下に見られていることじゃなくて、次郎が桃吾(たち)の価値観を軽んじたことなのだから次郎がその事実を認めて謝罪しないと許したりはしないでしょう。
上下関係の論理と横の関係の論理が全く違うって示してくれている。
上下関係じゃなくてコミュニケーションが重視されるのはほんといいことだ、うれしい。
あと何気なく言った言葉が否定的に捉えられているとかも描き方めっちゃうまいなって思った。

そんなんだから、母親の母性感とか、姉妹の描写に漂うミソジニー感がちょっともったいないなあ、と思うばかり。

ロングピリオド/古矢渚

久々に……きましたね……!
良いBLが。
古矢さんの熟成片想いものにはずれなし。

それでも1話時点では『群青のすべて』の二番煎じかなあ、読み返そうかなあと思っていた。
1話の構成も似てるし。
でも樹の優秀さエピソードに兄を絡めて引きを作って、ふたりの関係に微妙な空気感と駆け引きを提示したあとにおててカイロはドキドキするし惹きこまれるよ。

時折熟成ものBLが読みたい発作が起きるのでこのまえ『カタコイシーソー』『親友の「同棲して」に「うん」て言うまで』を手に取ってから表紙見比べてみたけどなんか私じっとりと目で焦がれる黒髪男が見たいんだな……。
でもその二作は別に特に気に入るところもなかったから、古矢作品の秀逸さが光る。
あと、恋焦がれる人を見て小説が書きたくなる衝動て、結構変態だしキモいと思うんだけど、そういう男が好きですね。
安達としまむら』とかは見てて普通にドン引きするから……BLの好みなんでしょうね。

佑征がなにか踏み出そうとしてくるときに探るような真顔になる樹、本当は待ってるんでしょう、うれしいんでしょうと、二回目読んでて思った。
探ろうとしてるからそういう顔になるけど佑征が隠そうとしてるのと同様に樹も隠してしまうんだろう。
こんなに誘ってるのに……何度も何度も……。
誘い受け」がここまで綺麗に当てはまるBLを読んだの初めてかも。
樹、全部佑征に対して「言わせる」「させる」をスタンスにしていて君の望みを叶えているがいつの日か塩対応煽りじゃなくてちゃんと言ってほしい~いやでもまだこれでいいけど。
続き読みたいなって思う久々のBL。
想定を超えた佑征の衝動に焦り驚く樹も好きなんだけどそのへんを描写する匙加減が好きですね。
モエポイントとしては描写してるんだけど「モエですよ!」ってアピールする絵にはなってないところがよい。

古矢作品のエロのないところが好きだったから、付き合ってからのお部屋シーンは「えっ見ていいんですか?」とか複雑な思いが。止まってくれてほっとしたような残念なような。
『君夏』シリーズも一応そういうシーンはあったんだな。でもこのくらいがちょうどいいよ。
ああいう純粋受けよりは今作のような考え込むタイプのカプのほうが好き。
隠してる気持ちバレちゃってるの好きだな。

あ、ただ唯一電車のホームのシーンはちょっと構成どうにかしてほしかったかも。
佑征さん、篠原さんの告白にOK出しといて好きな人にその態度……!?って思っちゃったから。