真昼の淡い微熱

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三日月よ、怪物と踊れ 全6巻/藤田和日郎

結構おもしろかった~。
アクション漫画に長けすぎててノンストレスでサラサラっと読めちゃうしプロットも明快でまとまりがあるからそりゃ高満足度よ。すべてが高水準。

藤田和日郎は昔『からくりサーカス』読んでたくらいなんだけど戦闘シーンが懐かしかった……。こういう動的な美しさを絵で表現する唯一無二の作家性ね。
昔あるるかん操る妄想してたしてた。

メアリーの気丈さ、エルシィの強さ、下働きの女たちやエイダとの交流に重きが置かれたシスターフッド、そういうものはよかった。
メアリーの「怪物」を生み出した孤独をエルシィが理解して泣くとか、エイダが一瞬メアリーを軽んじて対立しかかるんだけどエルシィがふりをつなぐとか。


あの、大御所男性漫画家がフェミニズムを題材にして、「今シスターフッドものがウケるんだな」と時代をキャッチしてそれを上辺だけでなく咀嚼してちゃんと女と女の交友の話を描きあげたことは、評価すべきだと思う。
エルシィもさにありながらメアリーの強さ、コンラッド博士との時計塔の攻防は白眉だ。
動きづらいロングスカートをただ切り破るのではなくズボンに作り変えるみたいなやりようはさすがだ。

が、まあ、今必要なフェミニズムとしては御愛嬌、かな。
シンデレラ批判すなわち男に見初められて結婚こそが女の幸せという価値観に切り込むのはまあいい線いってるなと思うが、なんか基本的に男の作った価値観を絶対軸としてる部分がうーん。
個人的にはエイダがメアリーに「男どもの頼みを意地で叶えてやっても貴女には得はないぞメアリー」っていう台詞が一番おおと思ったが、なんかその台詞の前後のつながり曖昧で回収されないんだよな。
結局メアリーがそこから受け取ったのが「私はエイダみたいに男の世界で努力してない」って落ち込みで、エルシィも「努力さえできなかった人生もあるんだ」とエイダを諭しにかかる。
結果エイダのその台詞は男の作った価値観に乗っかる必要ないよ、って意味ではなくなる。

メアリーが夫の友人たちの会話に入りたいと憧れるシーンとか、「結局私は男に守られてるだけ……」と落ち込むシーンがどう回収されるかが気になって読んでたけど「努力さえできなかった」程度で終わるので、なーんか男の地位は揺らがないんだよね。

『オールザマーブルズ』でも思ったけど、女主人公が男社会で劣位に扱われるとき、私は主人公には「男には私の価値はわかるまい」くらいでいてほしいのに「女はどうしたって男に劣る……」って落ち込むのがイラっとするんだよね。
実際そういう社会でキャラ自身が自己嫌悪をインストールしてしまうのは仕方ないけど作品が肯定してほしくない。
例えば現状ラグビーのルールでは身長190cm筋肉ムキムキの人が有利だけど点取認定ルールが「相手チームの選手の股をくぐること」だったら小柄で細身で足が短い人ほど有利になるわけ。でも「身長190cm筋肉ムキムキの人」が有利になるような序列をルールが作るのだ。
作品にはそのルール設定の恣意性を批判してほしい。


閑話休題
別に男の作った権力構造を女が覆すみたいな話がほしいわけじゃないんだけどこういうとこで息をするように出てくるのは「男の作った権力構造」なんだよね。
無頓着というか、楽なんだろうかね、作劇が。
そんでその権力が全く無批判なまま終わるので微妙な気持ちになる。
エルシィが踊り子たちと戦う贅沢なクライマックスは実際美しかった。
1巻導入の踊り子たちの神秘性とかワクワクしたし。
それを作り出した親玉のとこまで話を広げると収集つかなくなるからコンパクトにまとめる思い切りのよさ自体は気持ちが良いけれど、あんなサクッと倒されるんならせめて殺る役はパーシーじゃなくてジャージダだろう。
パーシーは祖父に評価され、男の中の男となり、出世する。結局エルシィをシンデレラのように階級上昇させる。
無批判……。
モブ男たちの下卑た差別発言は現代では戯画的に映るからメイン男性キャラも作者も読者男性も立場揺らがず「女性差別」を他人事にしておけるんだよね。
差別発言が下卑ていればいるほどそれを言わないメイン男性キャラや現代男性はそいつらを切断処理できるから。
いや、シスターフッド作品は、今までほぼなかった分いくら増やしても足りないからそれだけでも価値あるよ、そこは本当に評価している。
今までの社会では女の生きる道が男との結婚にしかないと思わされていたのだから、そうじゃない展望をフィクションから与えられることには意味がある、絶対。
ただまあ、限界はあるよねという話。


それにしても「息子が曰く付きエルシィと結ばれるのが嫌で突き放してしまう」メアリー唐突だなと思ったら後半そこが基軸になってしまって感情に着いていけなかったな。