真昼の淡い微熱

感想ブログ

輪廻と解脱/花山勝友

これです、私が知りたかったことがほとんど書かれている。

まず私の立場として、前世もの作品を読み漁るブームが到来して(物語を類型としか見れなくなったので一旦休止中)なんか前世設定ってあまりにも輪廻転生を簡略に扱いすぎてない?宗教的にはもっと違うでしょ?と思ったから調べたく思い。

仏教を調べていたときに「仏教は絶対永遠的な魂があるとはしない、魂に実態がないからこそ輪廻は巡る」という話を聞いたことがあってそれがどういうことかと思ったら、まず、仏教の歴史的前提にインド思想・哲学があるからなのね。

本来梵我一如であるはずなのに無知によってその真理を悟れない、だから業を背負って輪廻を繰り返してしまう、アートマンブラフマンと同一であると悟れば転生しなくなる――というインド思想はよく聞く話だが。
しかし仏教は「無常」を教義とするので個々に永遠性を持ち輪廻の主体となれるアートマン(我)の存在を認めるわけにはいかなくなった、輪廻するべき永続的主体がない、ではその仏教が輪廻を考える際にどう理論を構築すべきか?というところから始まっているのだと。

魂を永遠に変わらぬものだと規定できない。
ではどうするか。身口意からくる業が第八識である阿頼耶識に溜め置かれ、因縁生起の考えに従ってそれが因果の因となり、輪廻転生のもととなり、いずれ果を結ぶ。
注意すべきは阿頼耶識アートマンと違って永遠不変性を持たないことで、一瞬前の阿頼耶識と、身・口・意を成した一瞬後の阿頼耶識はひとつ業が加えられているので別物である。
一見同じもののように見えるのは末那識のせいであり、末那識とは第七識であり六識中の意識とは違い意識の拠り所になるもの。
人間の中にある自己中心的な、けれども常識によって認知することのできない裏側の意識みたいなもの。
(末那識、よくわからない。前意識か?と思ったが深層意識・前意識ともに阿頼耶識っぽいもんな)


それと「転生しなくなる」というのが解脱であり達成であるというのは強烈な厭世の宗教観によるもの。
生きるのは苦しい、その苦しみはこの世に執着があるから、というのは一応知っていたが、ここまでとは。
結局人間存在そのものが苦しみの原因なのでそのもとを断ちたい、という。
しかし無知によってこの世の楽しみにばかり目がいってしまうので、「もう一度生まれたい」と思わないように陰惨な世界観がある。
天界・人間界・(阿修羅)・畜生・餓鬼・地獄――
このなかでも「まだまし」な人間界に生まれる可能性だって低いし、天界に生まれたとしても次はそれよりましな世界はないので死ぬのが苦しい。
そこに苦しみがあるのをちゃんと悟って解脱しよう!

……と。このへん現代日本の価値観とそぐわないよね。
転生もので「二度と転生できなくなるよ!」とは散々聞いてきた言葉だ。あと厭世よりも人生讃歌が好まれる、というか苦しみ溢れる人生をなんとしても肯定しなければならないという意思を感じる。

そしてその現代価値観にも本書は自覚的であって、結びのほうには「現在の人生こそが大切」という話もしている。
前世とか来世とか言われても、今関係ないしねって。
でもこういう思想が広まったのは現世に一筋の希望も見いだせなかった時代なのかもしれないと思うとなんとも。
そしてこの現代において輪廻転生思想を考えるならば「遺伝子の相続」という形で受け取られるのではないかという可能性を示唆していてとても納得の感。
業の集積としての阿頼耶識を、遺伝子に置き換え代々の行いの継承、そしてまた自らの行為も含めて再び子へ受け継がれていく、という考え方。
まあ、でも、「輪廻転生」と聞いたらやっぱり個の転生だし、その因縁を継承するかどうかが「前世もの」の鍵になる。
軽く調べたなかでは古今東西転生もので仏教的な輪廻転生観を採用しているものって皆無なんだよね。
ちょっとくらいあってもいいんじゃない……!?そもそも輪廻転生について調べようと思ったのは転生ものの漫画で明らかに間違った解説をしているのを見てしまったからなんだ。


しかし悟りきった仏よりも、悟って仏陀になれるにもかかわらず大乗精神で他人が悟る手助けをする菩薩が好まれたというのはいかにも日本人らしい感じ。