真昼の淡い微熱

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Mommy

『新しい声を聞くぼくたち』を読んだので見た。

この著書で「折りたたまれたマイノリティ性」とか「障害の医療モデルを脱構築した返す刀で自らのアイデンティティとしての障害を肯定する」とかいう話が出てくる。

依存を否定し自立を促す新自由主義とポストフォーディズムが福祉よりも就労支援(自立)重視を規範化すると。
その規範の中で「良い、許容可能な依存者」と「悪い、経済的に自立すべき依存者」に線引きがなされる。
新たな男性規範はケアリング・マンと多文化主義を取り込んで「許容可能な依存者」をのみ称揚する、資本主義下のメリトクラシー社会で成功を収める異性愛的な男性主体であると。


「新たな男性規範」が取りこぼす、外部に位置づけられる作品が『Mommy』だという話だとしてちらっと触れられているので、その文脈で見た。

ので、ここで終わるか、と。
放火して施設を出て、ダイアンも解雇され、なんとか職にはありつくものの放火の件で提訴され、ダイアンを口説く弁護士男性からも見放され、自殺未遂し、結局騙し討ちで施設に入居させ、一時3人のユートピアを築けたカイラも家族の転勤で引っ越し、結局施設でも手を付けられず脱走を図る……。

「僕たちにまだ愛はある?」「愛しかない」
愛では太刀打ちできない、けれども愛しかない。

途中カイラとの勉強が進んで大学進学への希望が芽生えたり、施設に行く道で結婚パーティーの幻覚を見たりするが、どちらも叶わない。

折りたたまれない。
ティーヴは成功を収めない。


吃音で職を追われたカイラにも結局は家族があり、引っ越すと告げられたダイアンが「全部自分で決めたことだから、それが希望」と強がるところの、ふたりの演技もよかった。
ああ、新自由主義下で個人化された自己責任論だ。
そこに架空の「施設福祉」法が対比的に導入されてるあたりが先進国の作品……と思う。(自国への皮肉)

ティーヴが「キレる」ときって必ずしも由のないときじゃなくて(しかし10:0のときもある)ダイアンに贈ったネックレスを万引きしたと決めつけられたりカラオケバーで馬鹿にされダイアンに無視されたり、スティーヴがどれだけ社会から巧妙に除けられているかだったりもして。
ティーヴの手に負えなさが、ADHDだから……という説明だけでは良くないのではとも思うんだけど、「こう育ってしまったのなら……」と思えなくもない感じ。

「なんか良い感じの楽しい一時がスローモーションで演出される」のがチープじゃなくて綺麗でよかった。夜中に見ると心が落ち着く感じ。
「折りたたまれてくれ」と願いたくなる自分のやましさが悲しくなる感じ。