真昼の淡い微熱

感想ブログ

対峙

凄かった……。

終始泣いていたなんの涙かわからないけど。

修復的司法の映画と聞いて見た。(からまじで4人だけで第三者が立ち合いしなくて最初びっくりした)



きっつい。
正直アメリカに住んでいたら見れなかったような気がする。
それほどに報告書を何度となくなぞってきたジェイの叫びがきつくてきつくて……。
4人の珠玉の演技力を見せつけられる作品……。映画は監督のもの、演劇は俳優のものと言うけどこの映画は脚本と俳優のものだった。



白人と白人の話か、と思った。差別構造がからまないんだなと。
しかしあとで知るアメリカ銃乱射事件が年間400~600件て……そこに潜むのは差別問題だけではないな。(傾向も何も知らんで言うけど)


「なぜ、このわたしが」「どうして、こんな目に」
なんらかの被害を受けたとき、このふたつがまとわりつく問いとして立ちのぼる。
知りたい親だったのだろう。答えがないとしても知らなければどうにもならなかった親なのだろう。10人の被害者のうち。

ニューロ、サイコパス、ゲーム、ネット、銃を持つ友達、射撃場といった安直な理由をつけなければこの問いの重たさに耐えきれないジェイの苦しみが思われる。
答えがないなんて、そんな理不尽なんて。
脳細胞の説明をしだす、話したいんだと押し通すジェイ、そこにある感情が伝わる。


一方でそういった安直さを厭うリチャードの拒否も、一面的には真っ当だと思う。
理屈としては人間は単純ではないのだからと拒否しなければならないものだ。
それは恐らく散々わかりやすい理屈にまとめあげてきた世間の暴力からの防衛反応を再現であろうとも。(そしてその世間からの被害に着目した反応は、被害者遺族から見れば呆れるほどの無責任に映る(が、これは日本文化から見た見方かもしれない))


実際の当事者たちが既に不在のまま被害者と加害者が混濁してから再建していく、そこが醍醐味だから、ラストのリンダの告解が「答え」として提示されてしまったことは残念だと思った。
この、一度の会合ですべてを納得できるわけがない、再会を約束して、リチャードが言い淀んで終わる歯切れの悪さがちょうどよいと思ったので。
いえ、リンダが告解した展開自体はとても良いのだけど、単純さを肯定してしまわないかという気がかりが残るというか。

家に不在の父、良い成績を押し付ける母。「親に問題があったのでは」と責める権利は被害者遺族にはあるけれど映画としてはそこで止まってほしくなくて、父母をそこに至らしめ、子を事件まで追いやる社会構造の話まで手を伸ばしておきたい。



世間が求める加害者像は法廷で『慟哭』した林郁夫だろう。
サリンを作って散布した実行犯。
どれだけ重い罪を背負っているか実感して苦しみぬいて反省してほしい。
どうしてほしいかと訊かれエヴァンを取り戻したいと呟いたゲイルの切望はやるせなく、次点でそういった後悔と苦痛をリンダとリチャードに求めていることが明かされる。

しかし恐らくゲイルとジェイが望むような反応をリンダとリチャードは返さない。
すっきりと単純な因果論に収まって反省することも愛する子を責めきることもできず一番前面に窺えるのは6年経った今も抱える戸惑いである。

それもまたひとつの「答え」である。
通り一遍の反省や後悔や苦悩の慟哭を見ることだけが癒しではなく、単純な親原因論だけが答えではない。
感情の応酬そのものによって癒えるものもまたある。




終盤、ゲイルが「赦します」と言うのはキリスト教圏だからか。
赦さなければならないわけではない。赦してはならないわけでもない。
今日、この日、ゲイルは赦したくてここに来たのかもしれない。
手放さないとつらい、どうにかして手放したい。最後にリンダを抱き締める「赦し」は、それで赦せるものかはわからないし、もしかしたら「赦した」ことでのちに苦しむかもしれないけど、少なくともあの場では癒えがあった。


リチャードが当日何をやって何を感じたのかを知りたいゲイル。。
それでまた癒えるものがある。わかるものがある。無意味にこそ、余剰にこそ宿るもの。
ここは坂上香さんが上手く論じていた。

>しかし、ノイズこそが凍っていた被害者の父親ジェイの心を溶かし、妻ゲイルと結びつく瞬間を観客は目の当たりにする。加害者の母親リンダがゲイルに贈る手製の花束も、ノイズ(邪魔物)の一つだ。花束が両者の壁になり、結局脇に引っ込められるが、会合の終了後、この花束をめぐって再度一悶着起こる。そして、リンダは会合で明かせなかったことを告白する。



「あなたたちのストーリーとは全く違う」ことがわかっていく過程が凄かった。
リンダはしきりに「何もない」と話す。子どものことをなにも知らない空白さがふたりにはある。
タツムリしかない。序盤に語るだけの。
そこに親子の関係を示すストーリーはなにも。
それに比べてゲイルたちのストーリーの豊かさが。そういうストーリーが、そういうストーリーを打ち明けることが、4人を部屋の隅にまとまらせた。
6分を叫ぶジェイ、泥だらけを語るゲイル、現場の状況を暗唱するリチャード、「運命を決めた人の顔は穏やか」と最後の幸福を憂うリンダ。
リチャード、そこにしか感情を乗せられない苦しみが……。

散々責められてきたのだろうとすぐわかる、リチャードの防衛反応は。
「ちゃんと対処したつもりだった」「でも間違えた」は先回りの肯定で、これ以上責められないようにするための、これ以上考えないようにするための反射。
それが被害者遺族から罵倒を引き出すことになるのだが。


リンダの「罵倒のメールが来るたび思い出す」にはさすがにゲイルは忘れることなんかできないのに迂闊な……などと思いはしたが。

あと、「私達を愛しているから殺さなかった」は哀れというか、想像でしかないけども、親を殺したいんじゃなくてこうして苦しませて報復したかったのでは……とか。



劇場を出てふと、佐世保の小学生殺人事件の犯人は生きていれば今30代だなと思った。
「いつか謝りたいと思ったときに、父親が一切の繋がりを断ってしまっていて気まずくて連絡が取れないとなったら示しがつかない」からと被害者遺族に手紙を書き続ける父親は今も続けているのか。

単純な犯行動機、単純な親原因論、単純な反省物語では語りきれない。