真昼の淡い微熱

感想ブログ

あの娘が海辺で踊ってる/監督:山戸結希

2014年初頭『5つ数えれば君の夢』でがつんとやられて、年末『おとぎ話みたい』追って見れて、しかしこれだけはどうにも見る機会がなかったんだけど、やっと見れた!
そして期待どおりの作品!!


なんつーか、ド直球に山戸結希。
取り繕うことがない分むき出しの思想という臓器が転がってる。
すり減らしたい。
消費されることですり減っていく。
思うけど山戸作品の少女たちって「見られること」の自意識爆発させているのが特徴だけど誰もこじらせてないんだよな。
誰に見られたいか誰に見られることになるかはっきりしてる。(唯一『5夢』の宇佐美は少しこじらせているかもしれない)

「依存で何が悪いの」
ここ最高すぎる。
「依存のほうが愛し合うよりもむしろ強く繋がる」
わかってないから依存でダメになる、わかっているならいいんだ。
それを確信している舞子好きだー。


うわって思ったのは舞子の悪評を聞いて、「まあ……」と返す菅原……。
穏便であること。仏であること。舞子と一緒にいること。
どうして決別しようとしたのだろう。
古野の三味線で踊り子するって言い出したのってあれ決別宣言同様だよね?
もはや自分の望みと舞子の望みが決裂してしまったから送り出すのがベターだと思ったのだろうか。


最後に「お前もやっと気づいたか、恋心に」がくる、あああれを恋愛として規定してしまうのか、と残念に思ったのだが、
「菅原は私の恋人だから」
「レズなの?」
「比喩も通じないの」
これがあることでこの「恋心」を「比喩」として解釈することを許される。
取り残される悲哀かー……。



もうねー、構造だけを見るなら百合の安穏閉塞世界を男の乱入によって破壊される失恋ものだからそのステレオタイプは本来いらっとするんだけどね。
そこに「見るも無惨な少女の消費」が絡んでくるともうぐさぐさですわ……。


しかしこの作品それ自体がどう消費されているかを想像すると憂鬱だな……まあ想像で語るのはよくないですけど「見られること」の自意識それ自体が痛々しいという見方はやだな。

舞子が象徴しているものが「処女性」だということで男性文化人が「セックスを拒みながらも望む」と評していてうっっわーーーやだーーー!!と思ったものです。
あれで舞子の本心は望んでいると!?

……山戸監督自身は各々の解釈に任せると言ってくれるし私は私の解釈で「セックスを渇望する処女」という見方を否定しよう……。(私の中で、ね。それが間違いだと言ってくつもりはない)


舞子は「女体は消費されるべきものだから美しい容姿を持った自分は正しく消費されなければならない」と考えている気がして。
そしてそれが自分をすり減らしていくことだと知ってるし消費されることは汚されていくことだと思ってる。
だから菅原が汚されるのが嫌だった。

でも菅原の躍りが古野に見られ「孕んで」しまって「流産」も失敗しもうあとは菅原がすり減らされていく一方で。(と舞子は思って)
だから一人で東京に。
菅原が消費しつくされていく絶望によって、ならば絶望の上塗りをと自傷するためのデビューなのだ……。



ってことだよね?!
エンディングめっちゃつらかったな?!?!

 
……タグ、「すき、印象的」をつくってよかったな。「すき」ではないもの。
 
 
 
 
追記。
あの娘新聞を読んだ。
監督、ミソジニーを内面化している人だ。やっとぼんやりしていたものが繋がった。
舞子は「消費されるべき」ではなく「消費されてしまうもの」という絶望と諦めを抱いているのか。
ミソジニーの内面化は本来苦しいだけだ。ほどかれるべきものだ。
しかしその苦しさがこんな芸術を産み出すのなら私はそれになんと言えばいいんだろう。
踊らずにはいられない。
セックスに自分の心が惹かれてしまうのではない。「カスタマイズ」されているのだ……。
と、考えてしまっているのだそしてそこでは女同士のホモソーシャルなどあまりにもろい。
そう確信してしまっているからこそ、ミソジニーを甘受しているからこそ、女同士の関係をもろいものにしておきたい男性層にもウケることができた、届くことができたのだ、と、邪推する。
 
友情以上恋愛未満の女同士の濃い関係、だなんて百合文化に浸かっている私からすれば日常であり王道なんだけど、そうとはしていない文化圏もあるんだなあ、と思った。