真昼の淡い微熱

感想ブログ

僕のかわいい王子様/村上左知

わ~~~~~~!!!性癖~~!!!!!
こ、これだよ……私が求めていたのはこれだよ。


「ネコとしてのアイデンティティ」に、まず、さすが村上さんだな~~と思い。
受けにこだわる受け……相手が誰であろうと積極的選択として受けにこだわりアイデンティティにまでなっている男。
それ。まずそれ。
「男らしさ」から降りて、しかし女性性表象までは獲得せず、かわいらしい絵柄で「男のネコらしさ」を演出。

次に、千原先生という圧倒的受けを前にしてそのアイデンティティが揺らいでしまうこと。
つまるところ攻め×攻めのマウント争いの真逆。
攻め×攻めは「男らしさ」の争いであり、ホモソーシャルのそれとまったく同値。
対して受け×受けは「いかに男らしくないか」を競争していく。村上作品は、それを「いかに女らしいか」競争に反転しないよう慎重に回避している。自覚的。
あくまで「男」であることを前提にする。だから絶対自分の作品を「百合」と表現しないし、今作も例えば高森は美容は怠らないが短髪スーツ、汚部屋、そして二人とも料理下手、という設定によって、「女らしさ」を受けに背負わせないようにする。


はーー好き。
って、思ったんだけど、読み進んでいくうちに、ちょっと高森先生ネコにこだわりすぎてない……?ともやっとしてくる。
「男らしさ」から降りつづけた結果、「受け」の役割を固定化してきていないか……? それは「男"なのに"ネコにこだわる」という意味を帯び、結局役割規範を強化して、その線上には「女らしさ」規範が待ち受けているのでは……?

そしたらそんなことを思ったつぎの瞬間に「ちゃんとタチできるかな やるならちゃんとやりたい」!!!!
わーーー!!ちがう!!!受けにこだわってたんじゃない!メタで見て役割を強化しようとはしていない!タチにもなろうとしてる!!
がんばってタチをやるネコ大好き村上作品はそれ!!!

で、明かされるのは、高森先生が執着していたのは実は「役割」という固定観念そのものであったということ。
ネコならネコ、タチならタチという役割どおりのロールプレイをしようとしていたから、千原先生の存在によって混乱が生じる……。
この構図めっちゃ狂気じゃない? 攻めと受け、リバ、それぞれ役割とは「らしさ」とはなにかについて延々考察してなければこんなこと描けなくない?
男らしさを求める男を描きたくない気持ちがめちゃくちゃ伝わってくる。わかる………………わかる~~~~~~~~。

役割規範が崩壊したから、最終的に受け×受けであることを受け入れ、高森先生もネコでありながら探り探り攻めていく……。
「僕ここまで乳首感じないし」とかこの、受けだからそれを発言してしまえる、受けとしての比較を攻めている最中にさせる、こうして攻め×受けを周到に破壊していくのはいつもどおりさすがの手腕。
事後千原先生のタチ性が覗くのは、役割規範を破壊しおえたからこそなんですよ。

で、紙幅の都合上?完全なリバシーンは描けなかったから、話としては高森×千原で終わる。
だから高森先生が攻め化した、と見られてしまう可能性も微妙に残ってしまった。
しかし、それを村上さんは絶対に許さない。
番外編、「千原先生かわいくてネコの自分忘れそう」と調子に乗る高森でさえ、挿れてほしいと懇願する……こいつは受けなんだよ本人がアイデンティティ攻めに傾いていてさえ受けであることを"望んでいる"んだよ……。

性癖!!!!!
性癖……はーー、こういうリバが、こういうリバが、こういうリバが、私の求めたオアシス。ニッチ需要を満たしつづけてくれることに感謝する。
攻め役割に執着する男を見ると「男らしさ」に縛られていることにつらくなってしまうんですが、単純に男"なのに"と男らしさの反対にこだわれば男らしさを破壊できるわけではなく、男らしくなさを追求するたびむしろ無視された選択肢が浮かび上がり男らしさを強化してしまうことが往々にしてあるからつらい。
それをね見事に昇華してみせたよね最高。


ルールそのいちシリーズはもうなんか安定の萌え……。周到すぎてもはやよくわからない……リバ感覚が合いすぎる。
理央のこの騎乗位のコマの構図、実は初めて? かわいい。