真昼の淡い微熱

感想ブログ

ホットギミック

パッヘルベルのカノン!!!!!!


という感じだった。

山戸映画って本当に同じことをしつこくしつこく繰り返してるんだけど、すこしずつ生まれ変わっていくんだよな……そうそう……エリーゼのためにもさあーー「こんにちは山戸結希です」っていう。

まじカノンでしたね。いいところに使われてるわこれが。




「山戸結希に刺さってくれる人は刺さるところ沢山ご用意したのでどうぞご随意に!」みたいな映画だった。

最後の「バカでいようね」、もうこれはザ山戸映画でして、すなわち「処女と童貞でいようね」すなわち「子どもでいようね」なんですね。

世界がすべて自分のもののように錯覚している、というのが山戸映画の「処女」の定義なので。


神聖かまってちゃん『ズッ友』MVのときは、赤(大人)と白(処女)の合間を縫ってピンクの景色に染め上げるのは男性身体に仮託しなければできなかったのだろうけれど、今やっと、女の子がピンクになれた。

なんやろうね……この……地道な脱皮作業はさ。

処女が身体性を奪われるなすすべなさに絶望した映画。
処女が身体性を奪われる社会を自覚しながら奪われる前に処女を全うする映画。
処女が身体性を奪われまいと社会から逃走する映画。
処女が身体性を奪われるが処女とかなしいお別れをして身体性を取り戻し飛躍する映画。

ときて、やっと、
処女が身体性を奪われるが童貞と一緒に身体性を取り戻し処女と童貞のままでいられる映画。
やっとだねえ。

「身体を奪われること」をずっと描き続けてきた。
溺れるナイフ』からは、「奪われても、奪われたままではいないこと」を主題に据えてきた。
『ホットギミック』はその流れのひとつだ。


身体を奪われること。
レイプがいちばんの女への侮辱だということ。
性的な搾取・暴力をされた女は、もう不可逆に奪われたまま元には戻れないのだということ。人生を真っ黒に塗り替えられてしまうのだということ。
無垢な処女はファルスによって支配されるのだということ。穢された処女は、身体を奪われママになるからもう自分のためには生きられないのだということ。だから処女は儚く美しいのだということ。

そういうものへの反逆なのだ。『溺れるナイフ』も、『ホットギミック』も。
見たか。私の身体は奪われても奪われてもほんとうには奪われない。私の処女は、
「私の身体は私のものだ!!!!」



叫んでいる。





すごい極端なんだよね。女は処女かママだから。(そういう社会だから)
自分の身体が自分のものだと信じていられるか。
自分の身体が自分のものならば、周りのすべて世界のすべてが自己の延長。
自分の身体が自分のものでないならば、自己はどこにもいなくなる。周縁化する。



私がこの世で最も気持ち悪い言葉のひとつに「あなたの子どもを産みたい」がある。
お前がお前自身の子どもを産めよ!
だから「亮輝の子どもを産みたくない!」って言葉がきらきらしてたのほんと最高だったな。
永遠の愛なんてなくて、初恋は過去にならないし、この恋がずっとつづくなんて思ってなくて、それでも今私はあなたの形を選んでいる。

「私はスキを諦めない」だし、「欲望を手放すな」だし、あなたとつながっているから私は自己の身体を選び直せるし、だけどあなたには私しかいなくても私はあなたがいなくなっても生きていける。


田切梓、おいおい齢17にして鳳暁生になっちゃいかんよ坊主……みたいなきもち。
全然梓の闇が思い出せないんだけど「あ……暁生だ……」って思ったことだけ覚えている。(ウテナの民、鳳暁生を見いだしがち)

ほんと、「セルフポルノ」のシーンの意図された気持ち悪さ、恐ろしくないですか?
なんであんなものあんなに生々しく映画に映し出せるの??
う、うわあ、好きな男を信頼して身体預けたら知らず搾取されていた、っていう過酷な少女の性の世界、でもそれすごい素朴な恋心じゃんそれを誰も否定できないじゃんこのかわいらしさをかわいらしいままでいさせられない社会が悪じゃんリベンジポルノがリベンジポルノとして侮辱機能する社会が悪……。
迂闊にさらけ出すのは「バカ」だけど、だけどさあ、この少女に「危機感が足りないバカ」ってセカンドレイプする輩がいたらそれは死刑でしょ………。

梓のマネージャーのキャラ造形もほんっっと恐ろしいんだけど!?!?
このなんだろうリアルさみたいなもの、なんだろう…………。

しかしまあ、亮輝というキャラクターは、原作付きの限界な気がしたな。
そりゃあ昔の少女漫画、口が悪い男が本命に──みたいなテンプレ的キャラなんだろう。
で、まじ山戸節のきいた台詞が光って、俳優さんがいい演技してくれて、「ど、童貞……!!!」と感動したのだけども、やっぱりどうにもモラハラ臭がすごい。
生半可な俺様キャラじゃない、モラハラなのだ。(なんかそこがなぜかすごい童貞感を出しててめちゃくちゃよかったんだけど……)

梓が暁生化して、亮輝の悪友どもが救いようのない悪だった(ここがもうほんとすごい……このモブたちの台詞原作流用じゃないでしょ……山戸監督が考えた台詞でしょあの"テストの点が優秀なイケメンヤリチンミソジニスト"感……私の二大推しはこのモブと梓マネージャーです)から、相対的に亮輝が「イイヤツ」に見えてしまったのが尚悪い。

モラハラが特に咎められないまま、初に選ばれてしまう。正当化されてしまう。
山戸映画のかゆいところに届かなさってこういう男の処理なんだよな……。

三人ともを捨てるエンドだったら手放しで称賛したのだけども。
ただここは昔の少女漫画原作だからな~って最初から期待してなかったので、そろそろオリジナル長編映画が観たいです……5年も新作見れてないじゃん。
私は『離ればなれの花々へ』以後が見たいんだよ。
女の子が女の子を愛するということの山戸映画が見たいよ。


あ、だから、茜ちゃんはにっこりしたね。
ていうか最初「茜ちゃんのほうが山戸映画っぽい容姿してんな~睫毛といい唇といい喋り方といい『おとぎ話みたい』のときの趣里さんぽい……」と思って見てたら完全に山戸キャラで笑いました。
いやむしろ初が山戸キャラっぽくなかったので、茜であの少女の自意識を発散してやるぞ!感がすごかった。

でもだからこそ「なんで主人公の子この子にしたんだろう……」って思ったけど後半から表情がほんと鋭利で納得の演技だったね。


逆に初は、主体性のない女の子といういかにもな造形だったので「ああ、身体性を取り戻してゆく姿が描かれるのだな」と最初からわかってた。
けど、最初から自意識をたっぷり持ってる女の子を描くのは得意だけどさては山戸監督そうじゃない女の子描くの不得意だな……って思った。
だってどこで獲得していったかよくわからなかったんだもの……。
「亮輝がこういう女の子にしてくれた」って言われても「ん?まじで?基本ただ罵ってきて梓に怒ってただけじゃ?」って感じ。
主体的になれ自分で選択しろと迫ってくる男の子だったから身体性取り戻しました~って言うにはモラハラが邪魔すぎるんだよなあ。

やっぱり私はわかりやすいけども処女と処女の山戸映画が好きで処女と童貞の山戸映画には特に惹かれないなあという感じ。もう一回は観にいくかな。