真昼の淡い微熱

感想ブログ

やがて君になる8巻/仲谷鳰

よかった……。
やが君、今まで「卒のない秀作」「その名に恥じぬ現代百合代表作のひとつ」という評価を下しつつ、好みとまでは言えなかった。
けど、今巻で スキ…… と胸がぎゅってなった。

前巻の沙耶香まわりも泣くほどスキだったので、助走からのジャンプって感じでした最終巻は。

女が女を「好きでいる」「好きと決める」瞬間、女が女に性欲を向ける、その瞬間にこれほど感激してしまうのは、私が社会から受けた傷に由来する。
やが君のような作品に出会うたび、感激できることに、救われつづけるのだ。


最終回に○年後──を描く手法自体はありふれている。それが百合においては「女同士の恋愛が思春期に閉じ込められたものではない」意思を示す演出になる。
べつにやが君に限った演出じゃない。他の百合作品も採用している。
しかしやが君ならではの新規性を感じずにはいられない。やが君にこれ以外のエンディングはないと思わされる。
私の好きなこてこて少女漫画『ミルククラウン』のなかで、ヒーローとラブラブである主人公が「永遠の愛なんてない」て言いだすシーンがある。
「永遠の愛はない。朝起きて今日も好きだなって思う。夜寝るとき今日も好きだったなって思う。その繰り返しが気づいたら永遠になっている、それだけがある」みたいな台詞。
ダイナミックなロマンティシズムを否定し日常生活の中にむしろそちらのほうが継続困難ではないかというロマンを見いだす。
やがて君になる』が出した恋の答えは、それに近いのではないか。

「わたしは先輩がわたしの特別だって決めました」
この回りくどさ、感情を正確にあらわそうとする努力、ここがやが君の醍醐味だ。
私の好きも侑と同じ種類のものなので共感した。




さて。
しかしながら、『やがて君になる』にまったく問題がない、とまでは思わない。
アセクシュアルの扱いである。
もちろん、これ以上なく慎重に丁寧にフォローしている作品でもある。人が人を好きになることは当たり前であるとか、ならなければならないとか、いずれ本当の恋ができるとか、そういった世の恋愛至上主義には与していない。
しかし物語の構造上、アセクシュアルの肯定は槙くんに託すのが限界だった。

「人を好きになるということはなにか?」
それを深く問うにあたって、「百合」と「恋をしない人間」を本当に使わねばならなかったのか?
やが君の根幹を否定する問いである。これは。
この問いには「やが君に関しては使わねばならなかったのだ」とか答えられるし、実際そうでなければできない展開しかない。例えば七海先輩が男で、「君は俺を好きにならないから好き」と侑にキスを迫っていたら問題だろう。「好きになることを決めた」という言い回しは響かないだろう。
「百合」と「恋をしない人の尊厳」に対し、この作品はあたうかぎり真摯に答えてきた。

しかしいずれも「あたう限り」に留まる。
やが君の根幹がこうであるから。
ふたりとも「人を好きになる人」へと変化するから。
……というのも、以前twitterで「侑は最初から人を好きになりたかったのだから元々アセクシュアルではない、侑にアセクシュアルであることを求めるのは間違いだ」って言ってる人を見かけたのでね。
ほら、槙くんみたいに揺らがない自認がなければアセクシュアルではない──と、こうやってすぐ誤解される。「恋に憧れる私は本当にアセクシュアルなのか?」と当事者に無用な負担をかける。

危うい。
読者の偏見の問題だ。作品に100%の罪はない。真摯に応じている。けれど危うい。
やがて君になる』が、「アロマンティックアセクシュアルは、恋愛漫画の主人公として、人を好きにならないまま物語を紡ぐことはできない」シグナルを発してはいないか?
例えば私は『湯神くんには友達がいない』が本当に好きなんだけど、あれはついぞ主人公に友達も彼女もいないまま終わった。なのに16巻も続けることができた。明らかに世に問うアンチテーゼの漫画でありながら、エンタメとしての出来も素晴らしかった。

やが君は「変化」を描く。恋という箱ではなく中身の人間関係を重視する。
最終回にあるように、「名前をつけない」こと、ラベルではなくひとりの人として相対することを説いている。
アロマンティックだとかアセクシュアルだとか恋人だとか彼女だとか言わない。
その人本人なのだと。七海先輩が姉ではないように。年上らしくもならないように。

その上で、やはり私は世間を信用はしないし、やが君が完全無欠だとも思わない。
女の女への性欲は私にとって救いだけれど、やが君は、それこそやが君であるからこそ、「好き」と「性欲」の結びつきを自明視することなくつまびらかに描写すべきではなかったか? とも思う。こちらのほうが伝わりやすいかね。

再三言うけどこれは「やが君は"そういう"話(アセクシュアル主人公をアセクシュアルのままに存在させる話)ではない」なんかの批判を踏まえた、その上の話をしている。
"槙くん"以上の描写はできなかったのか……、いや初めから槙くん以上の描写ができない構造になっていたことに問題がないとはいえないのではないか、の話。
「七海先輩や侑にそれを求めるのは筋違いだ」とは言われたくない。
という。

なにはともあれやが君はすばらしい百合です。