真昼の淡い微熱

感想ブログ

映画 窮鼠はチーズの夢を見る

原作大ファン感想でーす。


映画見ててやっとわかった。私が水城作品の映像化を見る理由。(そういや舞台『黒薔薇アリス』は見てないな)

さて他メディアは一体どこまでミズシロイズムを理解できるのか?
がこの上なく気になるからだ。
表現できていなかったら安堵する。
この人間の醜さと愛おしさの両輪を映し出せるのは水城せとな本人しかいないのだと。

けれど期待もしているのだ。
水城せとなの魂を掘り起こしてもらえる瞬間を。
失恋ショコラティエ』はよかったね。ドラマだからじっくり描けたし、正も誤もないこれは恋だ、を体現していた。
爽太もサエコさんも薫子さんもまつりもみんなちゃんと醜くて愛おしかった。
脳内ポイズンベリー』は「恋」のロマンティックから逃れられなかったのが残念。魂から最も遠い。
だがオリジナル設定にキャラへの理解が見えたし、原作の不自然なところを整理してたし、やりたいことがわかった。



さて今回。


あのね。
途中まではよかった。
恭一と今ヶ瀬の隘路を本当に理解している読者は私以外にいないとさえ思っているのでそこまでの期待はしてなかったから。
ただ原作理念への挑戦をどこまでやれているかが知りたかった。

途中まで。
すなわち『梟』の別れまで見て、よかった。
「なるほど、このくらいの理解度ね」と確認できて満足した。
恭一はクズさを、今ヶ瀬は純情さを強調されていた。がっかりと安堵と、そして満足。
今ヶ瀬がただの変態になっていたのが意味わかんねえ、程度。
純情な今ヶ瀬もそれはそれでいっか、と思った。掃いて捨てるくらいのBLとしては好き。
純情今ヶ瀬のドライブは泣いちゃう。

でも『俎上』に入ってからのラスト30分くらい?が苦痛すぎた。
もうこっちは確認欲も満たされて満足してんのにのんべんだらりとただのクズの所業を見せられてもな……。
痴話喧嘩が一度も発生しなかったの、期待以下でびっくりしたよ。

痴話喧嘩のない『窮鼠』シリーズ とは?
意思のない女に成り下がったたまきがいる意義とは?

実写映画にあたって、漫画的な展開や台詞を完全に削ったのは正解だと思う。
わざとらしくなっちゃうもんね。
小さなとこで言うと、知佳子が調査会社に依頼したって打ち明けたときの「あれはっ……」とかね。
この映画のおしゃれな色調・ロケーション・インテリアにはそぐわない。
この色味はわりと好き、というか原作にない魅力の着地点として、好き。

私がメディアミックス基本大好きなのはそこに再解釈を見たいからなのよね。
原作を整理して新たなテーマを設定して、軸の変化に合わせてあのセリフをここで使うか!なるほど!
って瞬間が一番テンションが上がる。
だから知佳子まじでよかったな!!!
「私が何か言うのを待ってる、それがもうキモチワルイの」
わっわかる!
今そういう雰囲気だった!
原作の知佳子はまー序盤の女だから多少書割的だった。
それをこうも揺れる「恭一の妻」に仕立て上げたかー!って嬉しかった。

のーにな~。
ほんとたまきってなんだったんだろう……漫画的を排除した結果エレベーター号泣ぶちまけがないのはまあよしとしても、座ってくださいも左側でもいいよもない……。
原作どおりじゃなくてもいいからたまきの論理がほしかった。
夏生がわりとよかっただけに、たまきがこうも意思薄弱だと夏生のしたたかさも「女コエー」に堕すのだが……。

原作と文脈が異なる「恋愛より大事なことなんて他にいくらでもあるだろ」、最悪すぎて笑った。
風俗来て嬢に説教かますおじさんだった。

私にとってこの映画がいかに駄作かの象徴は「だな」なんですよ。
原作のテーマは「隘路(相互不理解、断絶、ディスコミュニケーション)」だが、映画のテーマは「粘着質なゲイになんでか惚れちゃう(だってBLだから!)クズノンケ」なの。
今ヶ瀬の「ダッセー」は劣等感と嫉妬なんだよ。
そこに恭一が「だな」って共感したらダメだろ!!!!!!!
愛されたがりで空虚なくせに自分は女に優しいと思ってる恭一が!!

「うわ、大伴恭一ってクズだな」って原作感想をそのまま映画にしちゃいましたか?
恭一がなぜクズなのかという行動原理が一切顧みられることなく流され侍の上澄みだけ掬ってしまった。
二元論ですよね。
今ヶ瀬の情緒クソ不安定さも恭一の決断もなんもない、揺れ動かない。
お前がストーカーかよ今ヶ瀬。
たまきがいるのに平気で今ヶ瀬と浮気する恭一、純度100%クズで笑う。
水城せとなが描いてるのは「100%」の拒否なんですよ。
まあドラマ版『失恋ショコラティエ』がやれなかった「クズへの許し」をやっている点は評価……できませんが……水城せとなはアンチ勧善懲悪の人だけれども「ただのアンチ勧善懲悪」ではないので……。

なんかこう別れ話のとき今ヶ瀬が恭一平手打ちしたのも、ラスト今ヶ瀬が出てったまま終わるのも、まあこれだけ恭一クズにしたらそうするしかないよなって感想。
でも今思ったけど今ヶ瀬が戻ってくるのただ待っててもこの恭一健気には見えなくて、ノンケ権力者の余裕でしかねえよな……。

見る前から危惧してたとおり、恭一はふた昔ほど前の「俺はホモじゃねえ」系ノンケに終始したね。
そういや同性愛を取り巻く周囲の目描写を付け足したわりに「ゲイ」という単語は一回しか出てこず、偏見を正すこともなく向き合うこともなく、今ヶ瀬の内面化ヘテロセクシズムに突っ込むこともなく、ここは単純に不誠実である。


さて、私以外に水城せとなの「真意」を理解してる読者はいるのか? と思って書いた原作読解を貼って終わろう。



あとあのゲイバーなに?
あのあたりから見るの苦痛になってきたんだけどあの偏見にまみれたゲイバーの描き方、なに?