真昼の淡い微熱

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たとえどれほど遠い海でも/ま子



友達の二次創作BL!
以下twitterに投下したツイートまとめ。




これなんだけど現代思想9月号の「恋愛の現在」と照らし合わせると面白くて、ものすごく現代的な話だよねと思う

「ロマンティックラブ・イデオロギーというゾンビ」では、「恋愛のゴールは結婚であるべきだとするロマンティックラブ・イデオロギーは近年弱体化しているが、結婚には恋愛感情が必要であるとするロマンティックマリッジ・イデオロギーが台頭してきた」と指摘される。

「恋愛がない結婚は幸せではない」って価値観で覆われた現代。恋愛を結婚によって正当化するロマンティックラブイデオロギーと違って、結婚を恋愛によって担保するのがロマンティックマリッジイデオロギー。渉くんが苦しめられるのってまさにロマンティックマリッジイデオロギーのほうだよね。

現代思想の永田さんと高橋さんの討議によれば、ゼロ年代ごろ若者の性交経験率がピークになると「性を含めて人格をすべて相手に捧げる恋愛」が期待されるようになる。お互いがすべてを明け渡し、わかりあい、「本当の自分」を承認される恋愛。

ロマンティックマリッジイデオロギーにおいて結婚は社会的条件のマッチングだけでは不十分で「そこに性と愛がなければならない」んである。渉くんの苦しみは相手に明け渡せる性と愛がないから生まれる。80代くらいの世代だとセックスが如何に夫本位で虚無でも「こんなもんか」で済ませられていたのに

で、で、その「本当の愛」が結婚によって承認されたあとの話で、近年『逃げ恥』的なコンフルエントラブへの期待が高まっているわけですね。

現代思想『「逃げ恥」に観るポストフェミニズム』参照、コンフルエントラブとは「対等な関係のもとで丁寧なコミュニケーションにより相手を理解することに重きを置く。地位や経済力などの外的条件よりもお互いに相手にどれだけ心を開けるかによって愛情を判断する」とする思想。

結婚後の話というのも違うね、ドラマ版『逃げ恥』にしろ、やっぱり関係のはじめからコンフルエントラブが目指されて、結局そのあとに性愛が生まれて「本当の愛」を育んでいくわけだから。

コンフルエントラブの機運についてはあとでブログを書こうと思っているんだよ。「自分の気持ちを相手に話す」「話しあう」「ドラマティックな恋愛よりも性別役割分担よりも居心地のいい愛情」を現代恋愛漫画は描こうとしている。

そこで2015年?『脳内ポイズンベリー』がちょうどそういう話で、今は『かぐや様は告らせたい』『プロミスシンデレラ』『付き合ってあげてもいいかな』『フラレガール』……に繋がる。これはブログに書く

コンフルエントラブが期待される背景を私なりに総合するとまず男女雇用機会均等法、昨今ではネオリベ政策による「女性活用」があり、そのため女に仕事と家事の二重負担がかかる。核家族下で近年「いやもうそれ無理」ってなったから性別役割分業の解体が求められ、コンフルエントラブに繋がるのではと

すなわち、それまでは全人格を賭したドラマティックな恋愛を経たあとは性別役割分業の結婚生活を送ればよかったんだけど、それに無理がきてしまったから「自分たちなりに居心地よい幸福な生活」を送るためのカスタマイズが希求されるのでは?まあこれはわかりやすすぎる簡略化だけど

『逃げ恥』が象徴的なんだけどコンフルエントラブには燃えるようなドラマティックさは必要とされないんだよね。新しい概念は以前からある概念を利用して浸透していくもので、今回は「恋と愛は別物」みたいな言葉が含有していた概念が利用されて、"恋"より"愛"に比重が傾いてきている。

「そうはいっても、恋……しちゃう!」みたいなときめきパワーへの抗えなさが今までの恋愛ものの主軸だったし、今もその揺れ動きの真っ只中にいるんだけど、それでも今までよりは天秤の傾きが小さいわけよ。

現代思想でもギデンズの「純粋な関係性」がものすごく人気で引用されまくってたのもそういうことよね

でも!やっぱり!コンフルエントラブには既存のロマンティックマリッジイデオロギーを解体するほどの威力はないわけです。だからこそ浸透しやすかった。『逃げ恥』もやすやすと性と愛に取り込まれた。

やっとこace日々樹渉の話に戻る、この話は「性含む全人格を賭した本当の愛の不全感を抱く苦しみ」と、「なりふり構わないほどの情熱を抱きはしないコンフルエントラブ」への期待の高まりが混在する点でいかにも恋愛過渡期たる現代を体現している。

コンフルエントラブはロマンティックマリッジイデオロギーを脅かさない。けれどこの話はまさにRMIを問い直す話なのだ。脅かさない、しかしときめき至上主義が後退するのであれば必然「生涯を共にするのに恋愛のときめきは必ずしも必要ではないのでは?」に切り込めるようになるはず]

興味深いのはRMIに侵された友也くんが「セックスがなくても恋愛があれば共にいられる」と思っていたことだ。つまりセックスまではまだ許せても「結婚には恋愛が必要」なRMIの範囲内で恋愛を拒絶されることが友也くんにとってはいちばん受け入れ難かった。

つまりこの作品のいちばんコアな問いは「恋愛のない結婚は実現しうるのか?」であり、その問い自体がロマンティックマリッジイデオロギーが自明視される現代の産物だということ。

恋愛と結婚の結びつきなんてロマンティックラブイデオロギーが形成されるまではなかった。現に上野千鶴子は「RLIは女を結婚に留め置かせるための欺瞞」と言っている。男は結婚の外に性も恋愛も持ち出してきたけど女にはそれが許されなかった。RLIを女が信じてくれさえすれば楽に家父長制を維持できる。

言ったことを翻すんだけど、RLIって性―愛―結婚の三位一体の切り離せなさが本質で。やっぱりRMIにも性も愛も欠かせないのだと思う。

RMIは「結婚のきっかけに恋愛が必要」なのか「結婚生活に持続的な恋愛が必要」なのかはまだ未研究だそうだけど、私の仮説はどっちも違って「結婚に至るまでと至ってからの道のどこかに恋愛が必要」なのかなと。どこかに存在しさえすれば自動的に結婚が恋愛で埋め尽くされ保証されることになる仮説。

だとするなら、死に際でやっと無性愛が証明されるのは悔しいながらも「そうまでしないと反抗できない」切実な第一歩なんだよなあ

だらだら迂遠なことばっかり連ねてしまったけど言いたいことまとめるとこう。↓

「本当の愛」を証明するロマンティックマリッジイデオロギーの根強い存在感と、その内部で期待高まりつつあるコンフルエントラブ(「恋」の後退/「愛」の価値上昇)の二点。本作はどちらの影響も表れてるのでとても現代的だし、コンフルエントラブを利用してRMIの打破もしくは拡張に挑戦している。

だから渉くんの恋"できなさ"について言えば、ロマンティックマリッジ信仰に抑圧される一方で「恋」の後退と「愛」の価値上昇を認めるコンフルエントラブに許容され包摂される可能性があるなと思ったのだ。排他的特別性を強調する婚姻制度が「愛」の価値をさらに高めるのだから。

しかしながら非セックスは性―愛―結婚の三位一体を拒絶するし、「話し合っても解決しない/話し合ってしまったら共にいられなくなる」という他者が他者であるがために発生する相容れなさはコンフルエントラブの弱点を痛烈に炙り出すわけ。

「現代の恋愛結婚の空気感を受けて、その空気に応答しつつもロマンティックマリッジイデオロギーの裂け目に切り込んでいったところに己の欲望の居場所を探る」点ですぐれた現代BL(次代くらいかも)だなってことが!言いたかった!!