真昼の淡い微熱

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スキップとローファー8巻/高松美咲

質が高えーー。
相変わらず質が高え少女漫画文脈を背負った良作である。



うっすらともやもやしており、なんだろうこれは、でもこのもやもやは恐らく良作ゆえに求めるものが大きいからだな、と思ったのだけど、もやもやは続く。

令和版『彼氏彼女の事情』だと思って。

カレカノを補助線として引くと、救済の対比が見えてくる。

宮沢雪野の救済は暴力である。
(初読時もわりに救済があっさりと軽すぎて納得はしていなかったけど)「ここで逃げたらいけないの」とか有馬に迫る宮沢は内面への踏み込みは完全なる暴力である。

そしてそういう暴力的なヒロインこそが平成初期に求められた。
暗い過去を背負って壁を作る男、それを打ち破って救済に導く女。

この場合有馬の暴力は普段は掩蔽され、ある決壊した時点で牙を剥く。
『スキップとローファー』は男の暴力など鳴りを潜めている。加害者タイプはもう拒まれる。


暴力の毒気が抜かれて残った「気持ちを伝えることができない男をヒロインが救済する」型はいつも変わらない。
私の原点は『ぼくの地球を守って』『こどものおもちゃ』『彼氏彼女の事情』である。
たぶん、『フルーツバスケット』もそう。

私が少女漫画を読み始めた頃は「男の暴力の内奥にある繊細さ」の救済があった。
そして好まれたのはセラピーの型だった。
相手の内面に踏み込んで掬い上げる。(ぼく地球については色々言いたいけど我慢)


でも今は「相手の内面に踏み込むことは暴力」と周知されている時代なのだ。
青野くんに触りたいから死にたい』は暴力として描き暴力を理解しながら救済を模索している。

『スキップとローファー』は、暴力を救済としては扱わない。
(加えて、女があからさまにケア要員化することも避けられていると思う)
でも、救済はしたい。


今回の、みつみが志摩くんを救済する描写がなんとなくもやもやした理由がこれだ。
「暴力を振るわずに相手の内深を救いたい/暴力によって傷つけられることなく救われたい」時代の需要への応答だと思うからだ。

その欲望のねじれにおののいてしまった。
人を傷つける責任を取りたくないのに人を救済したい欲望こっわ。
そこまで傷つき傷つけられたくないのか現代人!? なのにそこを回避してまでも救済したいされたいのか!?

結果、「言わなくても伝わる」「言わなくてもすべて都合よく回る」関係が導き出される。
(『青野くん』はこの察してちゃんを察してちゃんとしてきちんと描くし、『違国日記』は暴力を振るわない代わりに内面に踏み込まないから当然救われもしないよねという裏表を描いているのだが)


人と関わることは暴力と紙一重であり避けられないし、もし暴力ごと拒否するなら救済はない。トレードオフだと思う。
私の言い方ではあたかも暴力が善きことであり暴力のない関係は偽物かのような表現しか出てこないんだけどそういうんじゃなくて東畑開人さんのいうケアとセラピーの両輪の話を参照したい~。
「傷つけないようにする」ケアと「傷に向き合う」セラピーは相補で、どちらも必要なので、あたかもケアだけで人生丸ごと救われ傷を直視せずに治せると言うのは欺瞞だと思うって話。

(平成初期少女漫画はケア&セラピーだからね、そこからセラピー色を抜いてるのが本作)
しかしこういうのを見ると本当に深く傷ついているんじゃないのか、現代人……。
だって傷ついてる真っ最中に傷に向き合うのは無理筋でそれこそ暴力なので何より先にケアしなければならないからね……。


このあとどう傾くかねえ、今回のような形のケアだけで終わるような作品ではないだろうから楽しみ。

いやほんとに本作はその願望の成就として出来が良すぎるからこそ浮き彫りになるもやもやである。
凡作だったら特に何も思わず「よくある救済系ね」で終わっていただろう。
類似のもやもやとして、志摩くんが影あるモテイケメンの型を踏襲している点もそう。

こんなに繊細で頭抜けた描写力の佳作だから、いつも自動処理しているようには流せない。
「凡だからこういうふうにしか描けないのね」「凡だから需要や欲望がこういうふうに昇華されるのは当然だよね」なんて逃げ場がない。