真昼の淡い微熱

感想ブログ

嗤う日本の「ナショナリズム」/北田暁大

アイロニカルな態度がベタに転換する流れ

建前=自らを「標準」と信じて疑っていない(「戦後民主主義」「左翼」 「マスコミ」)
実態=建前の存在を知っている(対抗馬としての「ナショナリズム」「保守」)

アイロニー者は「建前に隠された本音を語る」自己像に酔う。本音語りはマウント手段である。
建前を語る人は実態が見えてない(とされる)が、本音を語る人は建前の存在を知りながらあえて語るわけだから、後者のほうがメタに立てる。

この優位性によって、建前/実態のズレを指摘するアイロニカルな見方が自己目的化していく。
「建前と置実態の差異を見出し標準とされる語り口から距離を置く」メタ自体が、2ch内でのコミュニケーションツールとなることも、アイロニーの自己目的化を促進した。

自分をメタ側に置くためにホンネに走ると結局ホンネ側をベタに信じているのと同じになる。
建前/実態の差異を無理に読み込もうとすると陰謀論まっしぐら。(アイツはキレイゴト語ってるけど本当はキタナイんだ)

この2ch的なアイロニカルな見方は80年代テレビからの影響。
80年代テレビは大衆に「テレビに映すものはすべてはテレビの素材である」という意識を埋め込んだ。(テレビの素材として見るからこそ、例えばスポーツ選手がテレビ的な「感動」の型に当てはまらない振る舞いをすると叩かれる)

80年代テレビがアイロニカルな見方を提供したからその見方でテレビを見返すことを覚えた大衆。かつて2chの「マスゴミ」嘲笑はテレビへの愛着あるいは愛憎を含んでいた。
80代のアイロニズムでは「何がベタで、何がメタなのかの基準」を設定していたのは「マスメディア」「資本」などだったが、2chではそういう大きな設定者がいない。
代わりにコミュニティ内の他者がメタを承認する。この承認への欲望が肥大することで、アイロニカルであること自体が目的化していく。

『終わらない「失われた20年」 嗤う日本の「ナショナリズム」・その後』では笑えない左派のシニシズムも出てくる。
内田樹の「ためらい」。
純粋に熱狂してコミットするのは危うい、一度ためらわないといけないとシニカルに構える。
しかし次第に「ためらい」を解除して、「自分はためらったんだからいいんだ」と自分のコミットに価値づけをする。(例:反安保運動)

「嗤う「ナショナリズム」」においてはそれが「普段はメタを指向して俯瞰した気になって嗤うが、次第に「自分はメタに見た上で選んだんだからいいんだ」とベタへ熱狂していく様となる。
それが現在に蔓延したネトウヨや反左翼、反ポリコレの熱狂の正体。