真昼の淡い微熱

感想ブログ

蒼穹のファフナー THE BEYOND 10-12話

※アナウンス※
この記事の筆者は冲方丁従軍慰安婦像への侮蔑発言及びその後説明なしに記事を削除して発言をなかったことにしようとした対応を批判しています。


進撃の巨人』と『コードギアス』のネタバレがあります。
 
 
 

 
あー。
やっと解放された。やっと。EXODUS21話が2015年11月。6年ずっとしんどかった。孤独だった。
今この孤独を噛みしめる。
6年の間、苦しみを共有してくれる人はそれなりにできた。でも結局この孤独を味わうのは私ひとりだ。
他のセクマイにだってわかりますまい。同性愛差別に殺されそうになった過去があり、殺される危機に向き合えずに放置したまま別の鬱期に突入し、その折にいちばんほしいものをファフナーから与えられて無防備な心をすべて預けてしまった経験は私にしかないからだ。
取り返せない。
クィアベイティングの名も知らなかった頃、同性愛がアニメの中で描かれるわけなくて、期待するのは恥で、男同士がちょっとちかしくすると「腐媚び」で、同性愛は本来存在しないものだから「原作を捻じ曲げた」同性カプを好む「腐った女」はわきまえなければならなくて、一騎と真矢の異性愛を望む欲望はあるべき自然なのに一騎と総士同性愛を透かし見るのは分不相応な罪だった。
 
正しく「わきまえて」いたのであらゆる作品には「同性愛あるわけないよね~」と予防線を張れていた。
どんなに同性への感情が強くても恋愛扱いされなくて当然で、その隙に少ない描写で異性と恋愛するのがあたりまえで、"ホモ"は異常なネタ扱い。そういうものだよね。
 
なのにファフナーだけは異性愛をせずに男性間思慕を描いてくれた
気づいたら期待してしまっていたのだ。一騎と総士の愛に異性愛の入る余地はないのだと。
異性愛を踏み台にした同性愛を求めてやまないほど同性愛差別に存在否定されてきたので一騎が真矢を選ばず総士への愛を叫ぶことだけが救いだった。
 
 
昨日やっと言えた。
HAEはクィア映画だ。
……BL映画と名状するのすら憚られた頃を思えば本当に時代が変わったものだ。いやたぶん時代的にはまだBL映画という認識も抵抗を呼ぶだろうけど、世の中が変わってくれたから、私がファフナーをBLでありかつ親クィアであると主張するのにためらいがなくなったのだ。
制作者の意図など関係ない。HAEは恋愛をメインに据えないけれど同性愛によってセカイを救いセカイが同性愛を祝福するクィア映画である。
こんなにも男性間の思慕を「おかしなもの」扱いされず異性愛にも回収されず期待していい作品があったのだ。
 
 
……しかしながら制作者の意図はそれはそれで無視できようはずがない
EXODUS21話でしっぺ返しを食らったのである。不安が蒸し返された。
一騎と真矢が恋愛になりそうだったからこそ「ならなかった」ことに安堵を得ていた私は再度その不安を思い起こされたのだ。
予防線を張り直せなかった。
異性愛をやるのも当然だよね」「同性愛になるはずがないよね」
ファフナーにだけは既にそう思うことができなくなっていた。
 
もう遅い。予防線が私の盾だったのにファフナーにはなんの防御もできず全面的に傷つくしかなすすべがない。
 
EXODUS最終話までの一ヶ月間は満身創痍になりながら生き延びた。まだまだ続編がありそうな気配。
BEYONDの発表で私はまた覚悟を決めた。心のウィークポイントをファフナーに握られる恐怖を受け入れる覚悟。防備なしに傷つきつづける覚悟。
だって私にはそれしかできないから。
 
6年。よく耐えた。
ようやく解放された。
もう不確定なものに心を預けるようなことをしないでいい精神状況になった。
同性愛確定なものに寄りかかるようになり、百合漫画を読んでは願望成就に涙している。
洋画洋ドラにも自分の居場所を見つけられるようになった。(自分の居場所がなかったから苦手だった)あと配信サービスによる敷居の低下。
なにより時代が変わった。
BLがアニメより先に実写映画やドラマで真正面から扱われるようになった。期待せまいと心を抑えつける必要がなくなった。
まだまだ変わり続けるだろうしもちろん今程度で満足するつもりもない。
フィクションにしか救われない心がある。
 
こうして長々と作品に対して同性愛などという「傍流」を語ることすら恥じていたのだ。
EXODUS21話、22話の感想読むとよくわかる。メインの物語を語らねばならないと軌道修正してきた。
 
 
けど私の人生でいちばん大切なものの話を私が自分のブログでしなくていつどこでするというのだろう?
なによりもう続編はないだろう、これで本当の本当にラストだろうと確信できることで、ファフナーに命握られた恐怖を感じずに済むのだからこの解放感に浸っていたい。ようやく嵐が終わる。
 
 
 
最終話。早く終わってほしかった。
EXODUSの最終話とまったく同じ心境で見ていた。
異性愛をやる時間がまだある」
 
楽園前。とうとう来た。
甲洋と旅すると言ってくれたから安堵したのに、とうとう一騎と真矢に決定打が下される時が来てしまった。
 
……首の皮一枚つながった…………
 
あ~もう最近はなにが来ても受け入れられると思ってたんよ。甘すぎるな。
私が一騎と真矢を前にして存在を脅かされなかったことなんてこの6年間一度もなかったじゃない。心臓鷲掴まれる恐怖。
はー、はー。
映画館出たら呼吸ができすぎた。命の危機が去ると一気に緊張が解けるらしい。
 
 
 
いや正直ショックはショックだよ、我々が総士から強制卒業させられたのが。
一騎の初代総士への想いを総士によって乗り越えさせられたことが
でもこのショックは最初BEYONDに期待していたものそのものだったんだよ。総士から卒業させられるとは思ってなかったけど、「私の大事なファフナーが壊されてしまう」って思いたかったんだよ、BEYONDでは。
 
そこまでは制作側の想定内だろう。
でも、でもさ、一騎に総士の灯籠は流させるのに、その結果芽吹く新芽が総士と美羽の異性愛ならこんなにグロテスクなことってないじゃない?
同性愛表象があまりにも不足している社会でてらいなく男性間思慕をやりのけたのに、その思慕を断ち切らせて異性愛に舞い戻るならそれ革新じゃなくて保守回帰……もっと言えば反動だよね?
走馬灯の最中からその不安が最終話まで続いたのだよ。
ファフナーの革新性……みたいなブログを書き続けてきたけど私は、クィアリーディングをやってドミナントな解釈に対抗する読解をしなおしてきただけなんだよ。
ファフナーがド保守なことなんて知ってるよ。
 
だから総士と美羽、恋愛にならなくてよかったけど、ラスト会話はやっぱ審議対象ですかね……。
そこも合わせて首の皮一枚つながった……が勝る……。
 
一騎竜宮島に戻ってくるのかなあ。
あと真矢が現地妻……? じゃないけど待つ女になるのも嫌だなあ。港の女?
 
もうでもいいよ終わりだから……。
はー。
二度とこんな思いしたくない。
 
 
 
 
はー、見終わった直後「え、もう何も言うことなくない……? 首の皮一枚つながったこと吐き出したら終わりだよ」と思ったけどこの分だとどうもそうはいかないな。
 
あ~~~~~~。
わからない。この悲しさも嬉しさもなにもかもわからない。
誰にも侵入されたくない。私のこの愛着も興奮も落胆も悲しみも冲方丁への軽蔑も私だけの感情で、どれかだけを切り取って持っていかれたくない。
石井さんん……そうだよ、人生だよ、ファフナーさ、変えられないもん。
無印が「傷」にしか存在を見いだせなかったように、私もファフナーに対する興奮にしか自分の存在を確かめられなかったときが確かにあったんだもん。ファフナーへの好きを捨てたら私の存在意義がなくなってしまう切迫感があったんだもん。フルタイムで働けている今では消えてしまったけれど、人生の一時期私は確かにファフナーに寄りかからなければ生きていられなかった。
それは男との異性愛をのけて女を想い抜くことこそが私がいなくならないようにするための反抗だったこととも地続きで、だからファフナーに同調したんだよ私は。私が社会に同化されていなくなるなんて耐えられない。
それが正しく「オタク」コンテンツの効能のコアでしょう? と思うんだよ。
社会に存在を否定されて、自分に向き合えなくて、疲弊した先に心のいちばんやわいところを掬いあげて癒やしてくれる。
現実逃避がなんだ、逃避したくなるほど現実が過酷なんじゃないか。それを肯定してくれるからオタクは任意のコンテンツに「取りつく」わけでしょう。
(当然そこには功罪あって、コンテンツは人間も現実社会と切り離されているわけではなく既に現実社会の中に包摂されてしまっていることをたやすく無視してしまう罪があるのですが)
 
 
マレスペロの最期。
ファフナーは加害者ケアで始まり加害者ケアで終わるということか
他者を傷つけてしまうことによって自分が傷つくのが怖い、責められるのが怖い、という小心(卑小)を「実は加害ではなく善きことだったのだ」と救済されたい願望が一騎に託されたのが無印。
加害を働いた自分を「信じてくれた」から争いの連鎖に流されないでやりなおせると説いたHAE。
ファフナーの根幹のテーマって対話じゃなくて加害者ケアだよね。
HAEまでは対話に必要な個の確立がテーマだったから弁証も折衝ネゴシエーションもなく「まずは個人になれ」だった。EXODUSでは個・個の集合の衝突があり「対話できなさ」が主題。
BEYONDで……それも総士と美羽でぎりやっと対話を始めたんだよね。セレノアの「これからはこうやって話し合って決めるのか」なんてシリーズ最終章でやるにはあんまりな浅さ(BEYONDはフェストゥムに割く尺なかったからね……)になったのは、ファフナーがやってきたのはひたすら対話の準備だったから。


加害者ケアはずーっとやってる。
一騎も総士も操もみんな、加害を救済しあうことで居場所を得てるんだよね。
そもそも真壁紅音がフェストゥムを受け入れた……点から出発していて、受容から生まれる芽があると描いた点がファフナーの特色であったのだから。
加害に対して対抗するんじゃ争いは止まらないから受け入れよう、というのがファフナーの軸だ。
傷を塞ぐ、なんてそんな救済並大抵のことじゃできないから一騎に任されたんだろう。
しかしその救済は自分の加害に向き合いたくない者の逃避としても機能する。
 
 
『オッドタクシー』にもすごい感じた。
「無垢な子ども」「被害者」であった主人公を絶大な救済が待ち受ける。
「無垢ではなかった子ども」が「加害者」になってしまった脇キャラは責任から逃げるために更なる加害をして、到達点いってしまったあとに逃げる。
救済されたい、逃げたい、のは向き合いきれないから。
救われるのはずるいじゃない、自分の憎しみに向き合わなければならないじゃない、憎むほどの被害をなかったことにされたくないじゃない……となったら、自覚的な加害へ一足飛びになるのね。
進撃の巨人』がそう。
 
 
加害者の加害を止めるプロセスがまだ社会に浸透していないのだと思う。
そして今まさに加害者ケアが注目され始めている。
反省させると犯罪者になります』とかも今の時代こそ必要。
 
私自身が加害者ケアへの関心が高い(というか許されたかった/許したかった)からこそ一騎の感情に親和したのね。
だからさあ、わかるのよ美羽からマレスペロへの許しの台詞、精度高えって。
憎しみであふれてしまうほどの根底に被害者性があること。彼が本当は何を伝えたいのか承認すること。
これは5話? の総士がエメリーの靴を投げたときの「そんなことしなくても総士がつらいことわかってあげられるよ」もそう。
加害者は被害者性をいったん受け入れてもらわないと加害に向き合うことはできない。
そう、それは本当にそうだと思う。
 
でもね、総士が自分のした加害に向き合うのは本来本当に「自分をわかってもらった」と思えてからでないと無理だし、マレスペロが承認後すぐ生まれ変わるのは逃げでしかないよ。
加害者を許しと救済と逃避とちゃぶ台返しで終了させてしまう。ここに『進撃の巨人』『オッドタクシー』にもみられる現在の限界がある。
一騎の加害が総士にとって「善きことだったのだ」と解決してしまう無印よりは向き合えているのかもしれないけれど
 
加害者臨床の世界でだって自分の大切な人を殺した人のカウンセリングはできない。
そこでマレスペロを受容するのに選ばれるのが憎しみに染まっていない美羽なのは順当だけど……。
総士一騎のこと許しはしないってお前いっしょにごはん作って一騎のテリトリーに入ってあげてる時点でもうだいぶ譲歩してしまったんだよ、口だけ許してないって言わせてもだめだよ、美羽とフェストゥムよりも構図がはっきりと加害者/被害者であるぶんグロいてまじで。
 
そこなんだよ。
憎しみに絡めとられないこと、許しと理解は別であること、それを伝えたいのはわかるけど、被害者が加害者化する連鎖の止め方と加害者責任の取り方が社会に浸透してないなあということがありありとわかるシーンでした。
なんかここは現代の産物だから仕方ねえなあみたいな目では見てる
2010年代前半ごろまで性加害がエロとして描写されるのは仕方ねえなあって諦めてたみたいな感覚と一緒。
でも『ウマ娘』が二期で性加害を描かなくなったように、これから漫画もアニメも加害責任をもっと掘り下げて描かざるをえなくなっていくと思います(思いたい)。
 
『被害と加害をとらえなおす』信田さよ子が提唱する加害責任の取り方は「①謝罪と賠償(償い)②説明責任(事実を認める)③再発防止」。(逆にそれ以上を求めすぎてはいけない)
『進撃』がわかりやすいんだけど「加害したら無限責任を取らされるのではないか」という恐怖が加害自覚者にはあるんですね。
自分が人を死に追いやった自覚がある者が霊からの復讐に怯える……みたいな話?
それが「自分が行ったのは加害行為ではない」意固地とさらなる加害を生むんだけどねえ。
 
そんでBEYONDにおいて一騎の乙姫殺しは見事に①②③全部ない。
事実は認めてるけど自分から積極的に説明責任を果たしちゃいない人の心なくしてるしもう悟りを開いてるしって設定上の逃げも使って。
EXODUS真矢の最終話と一緒で要は「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」なんだよね。これはすぐに「撃たれる覚悟があるならば撃っていい」に反転してしまう危うさがある。
だから『コードギアス』にせよ『進撃』にせよ一騎にせよ「加害の自覚があるなら加害していい」になってしまう。でそれはあからさまな開き直りで加害していいわけないのでもうスザクなりミカサアルミンなり総士なりに倒されるしかなくなるんだよ……。そういう宿命になってしまっている。
でも総士は一騎を殺さない。
憎しみの連鎖を止めるために。
 
そんな「我慢」じゃただ総士が皺寄せ食らっているだけじゃないか。
「憎んだって仕方ない(キラキラ)」的な時代でも作品でもないけど、実質やってることはそれと同じでしょ。うまくそう見えないようにしてるだけ。
違うんよ。
総士が「家族を殺された」って言ったら史彦に「ここにいる全員が同じ経験をしている」って言われてはっとするのも、「なんで乙姫はよくてあいつを殺すのはだめなんだ」ってエメリーの靴投げたら美羽に泣き笑いで許されてはっとするのも、どちらも総士が「自分のことばかり考えていた」と反省する契機であり、自分のことばかりじゃなくて大局を見て納得する総士という描写なのね。
違うんよ。
憎しみを止めるためには被害者をやりきらなければならないの。
他者のことを考える前にまず自分のことを考え抜かなきゃ憎しみから逃れることはできない。
総士の中にある「理屈はわかるけど許せなさ、納得できなさ」を解放させ、受け入れられる描写がないと、ただ総士がもとより聖人で努力と反骨心によって大いなる目的を達成しただけになってしまう。(それが描きたいんだろうけど……)
でも本当はわかってるんでしょう、マレスペロの憎しみが受容されるのは皺寄せ食らった総士の補完なんじゃない?
でもそのマレスペロも生まれ変わりに逃げちゃうんだよね。①②③を果たさないまま。
 
加害者責任、混乱期なのだと思う。今。
今回美羽が屈託なく総士を一騎のもとへ連れていくことがもう加害なんだけど、そう演出されてはいないんだよ。
ハラスメント対策で基本なのにね加害者と被害者を引き離すのが先決だって。
 
なんにせよ2年前決定的にわかっちゃったものね冲方丁が自分が加害者と名指されたときどう反応するかがさ……。
でも一貫はしてる。
フィクションでなら加害者を責任に向き合わせることができるのにいざ自分ごととなるとそうやって壁で糊塗して逃げるんですねえ」と思わせられるよりは「ああ一貫して向き合えないんだなだから逃げたい許されたいんだな」と思うほうが楽。
 
(リンク切れ)
"先日このブログでも、反韓反日慰安婦の像などについて、あえてブラックに書いてみたが、閲覧データからは、それほど注目されない話題であることがはっきりしている。日頃の(まあ数ヶ月にいっぺんくらいの)作品告知のほうが、(まあ作品によってではあるが)まだしも注目して頂けている。これは、無関心というのではなく、きわめて幸いなことに、このブログのお客様の大多数が「冷静」である証拠だ。"
 
批判されてこの言葉が出てくるのなんかもう共感性羞恥に近い脱力感があった。
このへんとか
このへん
じゃんね。
 
幻影の「お客様の大多数」が出てくるあたり「みんな」に寄りかからないと自分を保てないんだと思うと悲しくなっちゃって……。
突っ張って意固地にならないと、自分だけは「冷静」でいないと、自分がどこにもいなくなってしまいそうで怖い。
だから「あえて」慰安婦像をポルノと言ったのだと「冷静なみんな」にわかってもらうために(それを汲み取れない批判者が悪いのだと自分に納得させるために)その次の記事で現代にはなんたらポルノなんたらポルノが蔓延している云々と10個くらい並べ立てたんじゃないの。
わかるよ。私もそうだった。女に生まれてさえそうなんだから男だったらなおさらがんじがらめになって他害していた。
という思いゆえに男性の被害者性からくる加害に対する関心が高いんだわ。
冲方丁の本心も言い訳も知らんよ、慰安婦像の意義を軽んじて侮蔑した説明責任を果たそうとしてないんだから。
 
私もさー、批判記事出したとき責任の取り方を提示しなかったのは失敗だったかなとも思ったのよ。
無限責任を望んでいると取られるのは癪だしね。
ただ確かに2年前は私も責任の取り方といってもあやふやだったところがある。海外の失言コメンテーターみたいに謝罪して番組に専門家呼んで真摯に勉強しますパフォーマンスする……くらいは著名人がしてくれるようになるまでどのくらいかかるんだろう、とは思ったけど。
 
でも「あえてもなにも戦時暴力を受けた被害者の意思を踏みにじる発言は許されないです」って社会に示さなきゃならない、作品のファンであればなおさら曖昧に受け入れてはいけないって優先順位をつけた結果あの記事になりましたよ。
自分の感情を最優先に守るのは自分自身でやってくれ。
田房さんの上の記事みたいに。
私も総士にそうしてほしかったから。
 
 
他感想。
 
・生命の多様性
これも加害者ケアと同様に多様性とやらがまだ社会に浸透していない限界を感じる。
結局人間中心……というか竜宮島中心で、そこになじまない存在は去るしかない。フェストゥムもほぼ一掃され、一騎も甲洋も実質追放じゃんね。これは設定上も追放として書いてるんじゃないかな?
排除、排除、排除。
こういう落としどころになりそうだから完全無欠の完結みたいなの見たくなかったんだよな。
EXODUSまでは全然期待できたのにな。
一回しか見てないのでアルタイルがどうなったのか定かでないんだが美羽に意思尊重されてました? あんまそう見えなかった。
ルヴィが「生命の多様性~」とか言い出して笑っちゃったよ。でもこの至らない"多様性"もまあ諦め半分ですね。
 
・父殺し
総士→一騎の父殺し、するだろうなあまあしないのは嫌だなあって思ってたので嬉しかったよ。(ニヒトVSアレス、面白かったけどザイニヒ対決リフレインが見たかったのもほんと。まあ一騎のザイン乗り換えは嫌ですが)
でもずっと本音では一騎のもとをひっそり去る総士がほしかった。
父殺しなんて古典的で男性社会用のカタルシスよりもそうではない道が見たかったのだね。
まあ嬉しかったよ。
 
・継承
史彦真矢零央美三香彗から学んで継承されるのに偽竜宮島から受け取ったものってなにもないんですか?
アンバランス。
総士が偽竜宮島を否定する理屈ってなに?
いや理屈としては総士は中にいるときから疑問を抱いてからベノンエスペラントの二項対立がすんなり総士の中で崩壊するのはわかるんだよ。
でも感情が追いついてなかったのは描かれてる。せめてなにかフェストゥムたちから受け取ってほしかったよね。
そゆとこが人間中心主義……。
 
結局総士が反抗しながら良き親を見つける話になりましたね。
偽竜宮島と初代総士と一騎へは否を突きつけるけど、終わってみれば竜宮島へは反抗しつつも取り込まれる。
竜宮島に新しい風を吹かせようという、徹底した竜宮島目線。
マリスと一騎の悪しきパターナリズムは否定するけど史彦の良きパターナリズムは受け入れる。
10話見る前はここの話をしたかったんだけどする気なくなってきたな。
 
・結局あの島で大人になることって異性愛生殖母性父性じゃん
なんかね、無印初見時「男と女がつがって生殖して胎盤使って産んで子育て」以外の家族を描いていること描く余地があることが嬉しかったんだよ。
↑これもクィアリーディングなわけだけど。
でもファフナーの「あるべき家族」像はかなり規範的だよね。受胎もできるようになっちゃったしね。
これは私の許容範囲が変わってしまいましたね、とは思うけど。でもいつも同じパターンは飽きん?
春日井家鏑木家という「悪い親」以外の「良い親」にあまりにもバリエーションがないの笑っちゃう。
母性か父性なの。
感情的な母の愛と寡黙な父の激励的な……。
弓子も子を守る苛烈な母になり、いつも自分も一緒に戦いたがっていた咲良も剣司を待つ女になり。
子を持つということは自分の人生を退くことなのかと思うくらいワンパターン化していく。零央と美三香、里奈と彗もやがてそうなるのでしょう。
 
・あーやっぱりグロテスク
一騎の総士への想いは断ち切らせるのに零央美三香も里奈彗も異性愛やって総士と美羽もその予感漂って竜宮島も取り戻しちゃうのやっぱり不均衡、どころか保守反動を感じるよ。
総士はそこへは反発しない。切り込まない。
正直一騎と総士の関係がいちばん大事なのってカプオタと石井真らいじゃない? 能戸隆と冲方も?
カプオタで保ってた作品だって自覚があるからこそ「一騎と総士に切り込まなきゃいけない、そういう作品上の要請であることはわかる。
でもそれで痛手負うのが主に作品支えてた女オタクしかないっていうのがもやもやします。
一騎が地平線の彼方へ行ってほしいという欲望成就をちらつかせておいてそれを裏切るのは小気味いい。ショックはショックだったけどこれぞエンタメなる裏切り方だから
ただそれなら同じように竜宮島取り戻したい欲望も成就しないでほしかったですね。停滞した竜宮島を総士に見限ってほしかった。それが不均衡なんだわ。
取返しのつかなくなったもの、もう二度と取り戻せない愛しい過去を「受けいれる」から私は少女漫画が好きだしファフナーが好きだった。
でもEXODUSで感づいたよファフナーは陰陽を補完しようとしている。
無印、ROLが陰。HAEが狭間。EXODUS、BEYONDが陽。
たとえ強いられた運命であっても自分の意思で選び直せというのか」の運命の受容から始まったけれどカノンが未来の時間に介入し、今回ついに運命を変えた。美羽が死ななくていい未来にたどり着いた。
嬉しいね、と同時に「結局少年漫画になっちゃったなあ」と、EXODUSのときから思ってた。
さみしいね。
総士の死も「積極的な受容」じゃなくて過去の切断なの。一騎はこれからも抱えて生きていくだろうけど作品的には切断処理されたの。
陰陽の陰は既に描かれなくなってしまった。
 
・普通に面白かった
なんかねえ、面白かったこと自体も本当なんですよ。
ああこれは「ちゃんと」終わらせたな、っていうね。
レガートの進化版がほぼ海中シルエットでしか登場しないのにちゃんとデザインされてるあたりから「ああ、最後の祭りなんだな、詰め込みたいだけ詰め込むんだな」と楽しくなってきた。インフレ上等。
ファフナー、面白いじゃん。
総士の「お前の命なんかいらない!」あたりはなんかヤッター!!というよりは「ああそれそれ、言ってほしかったこと言ってくれるじゃん笑」みたいな感情だった。
これは完結に2年半要したことの弊害だと思う。1クール3か月で見てたらもっとテンション上がってた。
うんうん、父殺しだし貴種流離譚だね。
前作主人公の到達点を打ち破る。王道の気持ちよさだね。一騎は倒されるべし、宣言通りに実行してその通りに面白くなったね。
だから「もう言うことないな」って思ったんだよ。もうこれでいいじゃんって。(と言いながらファフナー感想で過去最大字数になっている)
価値観が古臭かろうと加害責任に混迷しようと多様性の上澄みだけ掬った排除があろうと、全のために個人の犠牲を受け入れる前時代に否を突き付ける本筋はやりきったんだから。それはさ、面白かったよね。
マリスセレノアミツヒロの「家族」でがんばろうとしている感もあるし。ファフナーが非規範的な多様な家族を描くその芽はねちゃんと実らせたね。
ケイオスとミツヒロ、お前かよ「自分の中でふたりが同居している」をやるのは。とは思った。
 
なんかねえ。6話の雑さと7~8話? の停滞ぶりを除けば今までならスルーできてきたことでもあるんですよ。
EXODUS17話なんかは最たるもので「いやもうここまでベタぶっちぎるならもういいよ、文句言わねえよ、白ワンピ少女の恋と死犠牲儚さいいよ、わかったよ」と思っていた。
ただ私の見方も人生も時代も変わったし、冲方丁への軽蔑がでかくて無視できてたもんもできなくなったし、4-9話の雑さと停滞も、コロナの影響によって公開が間延びしたことも、全部ひっくるめてスルーが難しくなった。
子の犠牲と親の母性~父性~セルフオマージュ~全部前作までで聞いたことある台詞~らへんは全然ぶっちぎってないただの退屈な保守だから停滞するのだが。
4~8話くらいまでいらないんじゃない?(ただそれをやるとアキレスザルヴァートル化後の「総士……」を聴いて私が成仏できなくなる)
 
・10・11話は『女の子を殺さないために』なんですよ。
ああ、冲方丁が『天気の子』に作家として悔しがったのは美羽と陽菜が同時代になるはずだったからなのね。
そうでしょ、今までセカイ系の例を見るまでもなく女の子が男のロマンのために殺されてきた事実が『女の子を殺さないために 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」』(川田宇一郎/講談社)にも羅列されている。
その反省で2020年代に差し掛かるこのごろはセカイの犠牲に女の子を差し出すのやめよって作品が出てきたわけでしょう。
 
無垢な女の子が「下降」してしがらみをまとったらママになってしまう。女の子が自分の人生を捨てて周縁化しないために、しがらみから突き抜けるために落ちたそばから殺すのだ、というのが『女の子を殺さないために』の趣旨。
美羽がアルタイルのいる海底まで下降するのが象徴的である。
自分を捨てて周縁化するのがすなわちミールとの同化。ファフナーの特質として、コアになったら死ぬんだけどまた生まれてきちゃうのよね。
つまり『女の子を殺さないために』が言うには死んだらしがらみから突破できるから殺すんだけど、ファフナーは殺されてからもしがらみにまとわりつかれて他に奉仕する=ママになるところまで行くから突破できないの。
それで美羽は上昇するわけ。自分を捨てやしないぞと。
でも結局そっちで母性化するんよね。
ロマンの破壊ならず。
いやほんと7~9話のこと「保守寄り漸進左派」って言ったのはこういうところです。
善なるパターナリズムも大人=父か母型コミュニケーションも異性愛も、それどころか竜宮島も人間本位も捨てきれずに個から全への対抗だけやろうとしてるから中途半端。
 
『女の子を殺さないために』というタイトルが秀逸なのはそこに女の子を殺す主体としての男が含まれているからなんだけど、『天気の子』ファフナーもやっぱり女の子側からの反逆はなくて男側の話。
もう山戸結希と武田綾乃の「殺される女の感情はこれだ!!」「男のロマンに回収されてたまるか!!!」を浴びたあとは元の場所には戻れなくなってしまった。
これは失恋百合女子校百合日常系ばかりだったころは恋愛百合をやってくれるだけで喜べたのに今好みの百合をたくさん享受できるばかりにあのころには戻れないなあ、みたいな話。
だからこそ女が反逆をやってくれるEXODUSの芹ちゃんが最高だったのにやっぱ美羽が女設定だったばかりに父殺しをやる男と暴力を許す聖母な女という典型的性別役割に収まってしまったのが悲しいところ。
無印は男が男の暴力の許しをやり男が男を受容したから新しかったんだけどな。
ファフナーは無印のころから「古典的でない描写をメインに据える一方で、それを自然に溶け込ませ突っ込ませないためにベタベタに古典的な描写も脇で肯定する」バランスを保っていた作品だった。
なんだけど脱古典の象徴だった一騎がメインを降りたのでバランスが崩れたんだな、と思うんだよね。
あ、でも、この記事書いたときからはだいぶ下方修正となったけど概ね真矢がこの記事で言った通りに描かれてよかったです。
美羽の犠牲、『THE FOLLOWER2』以前だったら真矢が真っ先に止めるだろうから。でももう真矢は自分の守りたい人を守るエゴを持たない。
剣司が神妙な顔で「仕方のないことなんだ」とか言うのも『THE FOLLOWER2』でみんな同じ決断した感があっていいね。大人になってしまった。
そういえば今回で一騎が思ったより人の心残してたことに驚いたんだけどEXODUSにあった真矢を守りたい気持ちがなくなっていてそれは本当に心底安心しましたね……。一騎も『THE FOLLOWER2』側である。
 
 
あーでもなんか書いてたらほんとちょうど私の現在のテーマと合致しててなんだかんだファフナーは瑕疵を含んだ私の人生だったなって思うよ。
首の皮もつながったし、もう、私だけの孤独を愛でて、けして揺るがぬ一騎と総士への想いだけを抱えて生きていく。
一騎と総士が大好きだよ。大好きだった。
私にとって百合はこのままだと生涯必要だけどBLが必要だった時期はファフナーが必要だった時期と重なっていて、たぶんあの頃以上にBLに縋る日は二度と来ない。
私の中で一騎と総士の席だけが最上位に陣取りつづけるのだろう。
一騎がそのただひとつ残った心「総士」を抱えつづけて生きていくのだけが道しるべだよ。
一甲の塩梅もよろし。(わりとすき)
 
この感想焼き直しみたいなブログははてなのほうで書こうかどうしようか。