真昼の淡い微熱

感想ブログ

マイ・ブロークン・マリコ(映画)

原作はだいぶ前に読んでて、骨壺ひったくったところで終わりの作品だと思ってたからその先はほぼ映画オリジナルだと勘違いしながら見てて、見終わったあとに原作読みなおしたらわりと原作まんまの映画だったと判明してびっくりした。

そんで読み直してて急激にこの作品が相対化できてもっとびっくりした。
2020年ごろの作品の象徴だと思った。
マリコは既に死んでいる。
社会の、もっと言えば男の暴力に耐えきれなくて死んでいった無数の「女たち」の亡骸がマリコだ。
江南駅事件的な文脈を背負う「私たち」がマリコだ。

この作品で描かれるのは女の連帯、あるいは連帯できなさ、などではない。
どこまでも救済する/されるの構造が横たわっている。

マリコに託されるのは
「私は簡単には救われないことをわかってほしい」
「けれども無条件の献身で救おうとしてほしい」
「自分では立ち向かえないけど怒りを代弁してほしい」

椎野に託されるのは
「私たちを私の手によって救いたい」
「けれどもそんな力がないことが歯がゆい」


思うに2020年ごろのフェミニズムは、自己を獲得して手と手取り合うような、もしくはそっと寄り添い合うような形の連帯は求められていなかったのではないか。
深い傷つきがあって、それを誰かに救済されたかったのではないか。その裏返しに誰かを救いたいというメサイアコンプレックスがあるのでは。
それはBL文化の延長線上にある。
そう考えると男ジェンダーに迂回せずとも女ジェンダーの苦しみを描くことができているのは、かつてのBLが内包していた内面化ミソジニーから一段解放されたからではないかとか。


百合という箱の中には様々な文脈があると思う。
私は百合に「女が好きな女としての自分」を投影しているけれど、女を客体化したい男との交点もあるし、女としての自分を救ってほしい女との交点もある。

マリコの父親が包丁向けられた瞬間椎野をマリコと見まがうとか、「シィちゃんから生まれたかった」とか、
私は別個の存在として女を愛する女を描いてほしいからそういう描写は嫌だけど、椎野に癒着的な救済や代弁を求めるのなら必須なんである。
(非常に、嫌だけど。「女たち」を描いてほしいのであって、「(同一視した)私たち」を描いてほしくない。お前を救うために女がいるのではない)

もちろん交点はあって、
映画で「あんたにはあたしがいたでしょうが!」
にはぶっ刺さって泣いた。

ナリタマキオと椎野が恋に落ちて女が男に救済される不安と、それを覆す叫び。
映画版は過去エピソードが付加されて、男に翻弄されるマリコが「シィちゃんみたいにぴったりわかりあえる人がいたらいいのに」みたいなことを呟くのだが、それがいっそうヘテロセクシズムの犠牲になったマリコのもの悲しさを浮き彫りにする。

女同士で社会を渡るのは心もとなくだからマリコは椎野に救済されない。椎野はマリコを救う力がない。
女は女のセーフティネットになれず、男は女を搾取する。
だからマリコは死ぬしかない、が、ナリタマキオのような善良な男だったらマリコを救えたのだろうかという可能性が現れた瞬間に、椎野がヘテロセクシズムにマリコを取られる悔しさを爆発させる。
ここね、ここには交点があったと思うよ……。

永野芽郁さんの箸を口で割るしぐさ何回でも見たいなと思ったら何回も見れてよかった。