真昼の淡い微熱

感想ブログ

ブルーロック~26巻/原作 金城宗幸 作画 ノ村優介

まず1巻だけDMMの無料版で読んで、おおぅネオリベ極まれり……感性が古いぜ……と思ったら2018年連載開始と知って納得した。
その後『ダイヤモンドの功罪』読んだらアンチ勝利至上主義をやっていてこれは『ブルーロック』と比較したいな、と思って続刊を手に取る。

ただただ「あ、そうすね、この作品ならこうくるよね」という確認作業が読書体験だった。先鋭化されたシンプルなネオリベラリズムを展開している。
私がもともと勝利渇望達成挫折不屈逆転勝利のみで構成されるスポーツ漫画に反応する琴線を持ってないからでもあるんだけど。
このネオリベ先鋭さは『鬼滅の刃』とかの反動なのではないか、と言われててなるほどと思った。単純な信仰というよりは確かに反動ぽい。

ネオリベ世界観が行き着くところまで行ったなあ、と感慨深かったのが『進撃の巨人』で、その完結が2021年。
そろそろ3年前になる今ようやく振り返れるようになり始めたくらいだけど、あのへんでやっぱり時代の潮目も変わったよねと。
『進撃』は一番良いときに連載開始して良いときに終わった(そういう時流に上手いこと乗れたからメガヒットした)なあという印象で、同じネオリベ価値観を共有する『ブルーロック』はやっぱ時代の終わりにかち合ってしまったのかな。でも今も過渡期だしそれこそ反動勢力もあるからそこには引っかかっていて、加えて序盤のシナリオが良いからちゃんとヒットはしている。
いや琴線死んでる私にまで届くヒット自体が凄いのは凄いんだよ。10年前に始まってたらきっともっと行ってただろうなあ、というだけで。

ただ思想が合わねえ。
硬直化したおじさん文化と横並び思想への敵意、従来の構造では若者が損をするんだから自己責任でエゴを持つしかない。っていう勝利と支配、敗北と死のセット。
絵心の父殺しではなく権威主義、絵心の言いなりになって選ばれることを求めるのもきつい。潔の玲王に対する選ぶ側になれってのももうね、支配と上下関係の論理しか持ち合わせてないので。父殺しも支配と上下関係の論理なんでそれも嫌だけどね。

支配とか負けは死ぬこととか弱肉強食とか対戦相手のサッカー人生殺す支配の愉楽とか、勝利と手に入る女のグレードの連動とか、フォーザチーム=画一的指導と出る杭打つとか、あーハイハイってなっちゃった。あまりにも露骨。
潔がU-20戦で「"青い監獄"(おれたち)はU-20W杯で優勝します」から「俺が日本をU-20W杯で優勝させます」に言い換えたのとか。
でもリアリティーショー、年俸の可視化まで徹底されると、おおそこまでするかあ……と思った。
万人に対する階級闘争の世界、自己責任と自己利益最大化を追求して勝者総取り敗者はデッドのアダムスミス市場原理肯定の世界、すべてが換金されるネオリベラリズム

シンプルな感想としては、序盤は結構熱かったとこもあったけど、ゾーン概念(FLOW)が導入されて能力インフレ始まってからそのへんの面白さすら希薄になってきた感じ。
ダイレクトシュート、空間把握力、先読み、そして超越視界……とどんどん常人を超えるスキルアップしていかないと漫画にならないあたりも限界を感じる。ネオリベ流アップデートでもリスキリングでもどうとでも読める。まあきついよね、そこで生き残るのは。そこで手にする能力がメタ視野ってとこも示唆的。
ストライカーのエゴを追求する設定なので、サポート役になるキャラの処理がうーん。
当然ゴールに至るまでサポートが必要なのに黒名とか便利な脇役ごち!みたいなんでいいんか?結局蜂楽みたいな描き方にしないと輝かせられないのは根本的に設定に難がある感じ。
ああそうか、みんなが同じ思想を持ってて同じ論理で生きてるがゆえに潔の出した答えが正解になっちゃうのが苦手なのかも。皆最初に"自己責任"でエゴイスティックなストライカーになる道を選択済みだから。
だからサポート役を買って出る子がその道を進んでないということで序列下扱いになる。チームスポーツだというのにポジションごときで序列決められるのも、なのに必ず他ポジションにつく子がいなくちゃいけないシステムも無理があるわそんなの……。

「"主人公感"がキーなんだ」
 →皆ストライカーになりたいはず
 →なのにサポートに徹したがる(わざわざ序列下げにいく)奴がいるのはなぜ?
 →"主人公"感を持ちたいからだ!(そいつの中では序列の王様なのだ!)

どこまでも上下関係でしか理解してない乏しい論理でジャッジする失礼さ、乏しさに気づいてない無知さ、でもみんなその論理で生きてるから正解になるんだよね。
「どれだけ正しくても理解されないんだ」←乏しい論理を掲げる万能感にありがちな傲慢さ

8巻の馬狼照英と潔の攻防、意見が違う相手に対して議論して折衷案なりを探るんじゃなくて相手より強くなって屈服させるとことか幻想がすごいけど彼らは上下関係の論理で生きているからこれで通用するのである。
通用すると証明していく、上下関係で切磋琢磨してうまくいく展開にする点では上手いし、手を替え品を替え成功している部分だからありだとは思う、思想が合わないだけ。

ちょうど『ダイヤモンドの功罪』と対をなすシーンだねこれは。
両作とも「人間どうせわかりあえない」絶望から始まるんだけど『ブルーロック』は「戦って屈服させて認めさせる(その繰り返しで勝利へつながるところがバトル漫画じゃなくてスポーツ漫画なのですが)」で『ダイヤモンドの功罪』は「どう伝えれば暴力を使わずに共存できるか」なんで私は今圧倒的後者寄りなんですよね。
前者的世界観から見れば後者は「わかりあえると信じてる」的な綺麗事なんですけど後者的世界観から見れば支配と暴力は持続不可能な露悪なわけ。

『ダイヤモンドの功罪』のミソジニーは「ありがちだけどもったいないな」くらいなんだけど『ブルーロック』のミソジニーは露骨にわざとやってるから格好の分析対象になる。(なるほどここも反動っぽさすごい感じる。巨乳ネタとかあれは手癖の無自覚さでやってるんじゃなくてバックラッシュの文脈だと思う、女を性へと疎外させたままにしておきたい欲求)
「無能雑用」、絵心にとって帝襟は代替可能な雑用要員。代替不可能な労働に付加価値がある、という資本主義思想。ケア労働、雑用を軽視する理論的根拠をご丁寧に説明するところもまた露骨。
資本主義はその有償的価値を提供するのに必ず無償の資源を必要としているが『ブルーロック』はそこは無視する。
サッカーボールだって原材料の革は必ず無償である。
けれど莫大な金を生み出すサッカーには必ずボールが必要で、その対価は殺された動物に支払われるわけではない。無償の物資や労働があるからこそ資本は価値を帯びるにもかかわらずあたかも無限供給されるかのように無視される。ケア労働も同じ。施設の維持、食事の供給、トイレ掃除やベッドメイク、備品の管理などがなければ選手はまともに強化できない。絵心だって世話されなきゃまともに生活できないのに世話をする帝襟は「無能雑用」と軽視される。

ブルーロック計画の資金の有限性を織り込んで作劇しているのは日本経済が縮小していてその有限性を考えざるをえないからだろう。デスゲームものの『LIAR GAME』ではその金の出所は陰謀的に無視されていたし、それでもよかった時代だった。でも『ブルーロック』は露骨な換金システムサブスクや海外青田買い資本を投入して帳尻を合わせようとしている。
おそらく今後、無償物資や無償ケア労働の有限性を考えざるをえない時代がくる。現に地球の資源限界に警鐘を鳴らされているし、日本に限っても輸入依存と物価上昇、労働人口の減少で否が応でも有限性を突き付けられるから。
既に首都圏では一馬力で家族を養えないから共稼ぎ必須、となるとリソース足りずに共家事共育児問題も出てくるし、介護保険の自己負担増から介護離職問題もある。無限供給されるケア労働なんて無理、という共通認識が広まる。もうすぐ。

労働力そのものの有限性は感覚としてもうわかるはずだ。
蟲毒をしている余裕なんてない。次から次へと使い捨てにできる時代は終わった。担い手がいなくなるほうが問題になる。
サッカーは知らんけど昔は野球だって投手が登板過多で使い捨てにされていたのが今は球数制限、登板間隔調整で大事にされている。『ダイヤモンドの功罪』にだってその消耗への心配が描かれている。
そのような現実を元にしたら勝者総取り敗者デッドの切迫感にビリーバビリティがなくなる。おそらく千切の膝も都合いい鎖扱いとは異なる描かれ方をするだろう。(そこにクリエイティブの重心が置かれる時代がくる)
不可逆に時代とずれていくだろうと思う。

創作物なのだから考えなくてよい、という話ではない。創作物は常に社会の制約の中で生まれる。
『ブルーロック』が資金の有限性を考えざるをえなくなったのは社会の影響であるように、きっとこれからの創作物はほかの有限性を考えざるをえなくなってくる。

『ブルーロック』が資金の有限性に言及したこと自体はえらいと思っている。この原作者は社会のにおいを感じ取ればそれを漫画に反映させることができるあるいは反映させる義務に駆られる人だ。
リアリティーショーなんかの個人の人生や人格など従来無償だったものをどんどん切り売りしてまで資本の肥やしにする、そうまでしないともはや資本は成長しない(金を生み出せない)ことと、どんどん新しいスキルを磨いていかないと青い監獄で生き残れない潔たちの成長譚はリンクしている。原作者はその資本主義の搾取構造とむき出しの露悪をキャッチしている。
だからこそ「描かれていないもの」がよくわかる、ネオリベラリズムの外側のにおいはほとんどキャッチしていないのだなあとわかるだけ。
ネオリベラリズムが所与のかつ不変のものと疑ってない創作物も今後珍しくなると思う。いや、まあ『ブルーロック』も反動と考えれば、蠱毒システムを"メタ"的に用意して首謀者が出張っている時点で所与かつ不変とまでは描いていないのかもしれないな。
ただ「ネオリベ以外のビジョンが思い描けない、ここで生きるしかないのだ」という諦念からの焦燥感なのかもしれない、この反動は。
いやこうも考えられる、2018年から時代が変わったからこそ、敗者イズデッドのブルーロックシステムから目的がずらされて、最後の一人にならなくても世界中のチームから求人される設定になったのかも?
世界が広がった時点でずれが生じてるんだよね、すでに潔の焦燥感の理由づけが薄くなっていってる。
このずれがどう着地するかは興味深いかも。時代の変化を感じられるのか、ずれたままネオリベの論理で包括可能なのか。