真昼の淡い微熱

感想ブログ

ダイヤモンドの功罪 ~4巻/平井大橋

面白かった~!
面白かったし、こういう作品がこのマン1位を取れる時代にようやくなったことが嬉しかった。
あの……『群青にサイレン』が売れてなかったことを思うと、時代がようやく変わったというかさ。
『群青にサイレン』との共通点として勝敗じゃなくて人間関係の機微に主題を置く野球漫画、ってのがあるが、そういう漫画の読み方を2010年代はあんまりみんなわかってなかったんだよ。
嬉しいね……。

読み味としては『ブルーピリオド』のほうが近いか。
ポストメリトクラシーの作品である。あー『ブルーピリオド』については『新しい声を聞くぼくたち』が扱っているが河野真太郎さんにぜひぜひ本作も論じてほしい。
『ブルーピリオド』はそれでも前半は、美大合格という競争に晒された中でのポストメリトクラシーを描くわけだが、『ダイヤモンドの功罪』は能力的にはあっさり主人公が日本代表のエースになるし、競争ではあっさり世界一になるつまりそれらの軸での目標は達成してしまう。

……うーん、このあっさりと重たい勝利は最初「その手のテーマは越えますよ」の証かと思ったんだけど、「フォーディズム的能力のみによる(誰も楽しくない)勝利は"十全な"勝利ではない」ってことかもしれない。
十全な勝利とは「敗け」をも包含するだろう。まだわからないけど敗けを含んだ勝利とはきっと通常想像しうる「敗けても楽しいいい思い出」的なぬるさではないと思う。
単純に考えれば次郎はNPBなりMLBなりに行って階級上昇するだろうから、そのスパンで考えた勝利である。

だとするならこの漫画の着地点は「コミュ力と感情とチームの結束を重視したポストフォーディズム的な力で、勝利を意識しないことで(結果的に)勝利する」的結末になるのかもしれない。
途中出てきた次郎の将来の試合がそれを予感させる。(その試合では敗けることも当然予測できるから長期スパンで見た勝利ね)
その勝利を裏付けるにはコミュ力、他者へのケアと配慮、チームの和、感情の尊重が必要という。

その路線である場合、「強くなるには優れた人格も備えていなければならない、優れた人格込みでの能力」という山本由伸的な、大谷翔平的なポストフォーディズム職業人が十全なる勝者である。
既に次郎が他の人と違う価値観を持ってることが「誰も見たことのない投手になる」と予感させているのがその兆しと言える。
強さを得るには従来的能力だけではもはや不十分で、次郎的「我よりチーム」「勝敗より楽しさ」価値観を"織り込む"必要があると。オリジナルの思想を持つ次郎が成長してコミュ力他者の尊重ケア力チーム力を身に着けた暁に「誰も見たことのない投手になる」と。
そもそも次郎はベクトルがずれてるだけで他者の感情へのケアに重点を置いている人物であるのがポイントな気がする。
だからこそフォーディズム的な野球スキル(動画等で学べる努力)とポストフォーディズム的な能力(元来のケア力とベクトル修正できるほどのコミュ力)が合わさったら優れた人格込みでのエースが出来上がるのだと思う。そこに「敗け」と「楽しさ」がどう合わさるかは考え中。

勝利=楽しい、敗退=楽しくないというのはメリトクラシー的感性だけど、次郎はそれを超えたいと思っている。
個人的には超えた先にあるのは構造への懐疑であってほしいし、いずれ次郎には野球を辞めてほしいけど、現代的ポストメリトクラシー神話にたどり着く可能性のほうが今のところは高いかなと思う。

ashita.biglobe.co.jp

これらの小説では、主人公の成長と階級上昇が必ず一体のものとなる。だが重要なのは、それは個人的で利己的な上昇であってはならないということだ。何らかの「道徳的正当化」が施される。階級上昇をなし遂げるのは徳の高い個人であるという形で。

というところでちょうど河野真太郎のポストメリトクラシー解説記事を見つけた。
なるほど階級上昇の道徳的正当化。
となると次郎の階級上昇は「能力と勝利を求めない利他的博愛精神」なる道徳的エクスキューズによって果たされるのかもしれない。
これはもちろん利己の能力と勝利を求めて階級上昇することが現代の道徳に反するからだ。
一方で次郎の外側では能力主義や機会の不平等さ(けれどもそれが公平だというアイロニー)、置かれた場所で咲けとか「しょうがないで済ませたら上にはいけない」的な従来の自己責任論が舞っているし、作品もそれを否定していない。
そういう従来的競争社会の論理は、圧倒的天才の存在による不条理さで綻びと疑念を生じさせる。
だからこそ次郎が階級上昇するにはその綻びを無視できるほどの道徳的エクスキューズが必要になるんじゃないだろうか。
「勝利を目的にしてないからこそ、勝っていいよ」の迂遠な承認。


さて、さて。
ポストフォーディズムスポーツ漫画よ。コミュニケーション能力の描写が細かい細かい。
コミュニケーションの失敗としての桃吾の暴力、円の潤滑油的コミュ力、椿の対外コメント力と自他を客観視する力とリーダーシップ、、
次郎と桃吾が揉めて戻ってきたときの円の繊細さよ、そこ繊細に読ませてくれるんだと感動した。
あと円への頑張りすぎるなでも我欲も出せってダブルバインドも(理屈はわかるが実際困難)、大人から子どもへの対話的指導も、すごい現代的だ。
あと私は野球観戦するようになってから選手に求められる感情管理能力の高さに慄いているのだがこの先そこも描かれることを期待してる。
野球の特徴は個人プレー度が高くて一人の責任が重い上にプレー間に結構な間があって考える時間が生まれてしまうことだと思う。そんなん切り替え難しくて当然だよ。なのに失敗しても周りに影響を与えるほど暴れてはならないし立て直さなければならない。

何より感動したのはコミュニケーションとその失敗と成功が細かく細かく描かれていること。
そ、それよ、俺が求めているものは。
なんか漫画読みながら「時代が俺に追いついたな……」って思うことが増えた。作家と同世代になったからか。
天才ゆえの傲慢キャラっていったら今まで「俺に着いてこれねえお前らが悪い」(けど本当は孤独で楽しくなくて静かに傷ついてたりする)みたいなディスコミュニケーションだったけどそこ向き合おうと思ったら「価値観の対立」になってくれるんだなって面白さ。
敗けてもいいって言葉を使わずに伝える「このチームになれてよかったって奈津緒にも思ってほしい」、こんなんSSTだろ。
次郎の問題点は自分の物差しを疑わずに人の価値観ややり方を否定してしまうところで、いやそれは俺なんだよ。
その改善に必要なのは、次郎自身が全人格的に変わることではなく、相手の価値観を尊重して言葉の伝え方を変えることである、っていう漫画なの。
こんなんもう俺が数年単位で死に物狂いで自分に向き合って体得してきた概念なんだよ……😢
これからの教育には「自分の感情を大事にしてあげて処理する方法」と「相手を尊重して伝え方を考える方法」が必要だと思ってるけどひとまず後者が描かれていて満足である。
でも最初は前者が必要だと思うのでこれからそれが描かれてほしい大いに期待してる。
次郎は人の価値観蔑ろにするけど次郎も誰からも次郎の価値観を尊重されてないのだから。唯一母親だけを受け皿にしてはいけない。

コミュニケーションが重視される漫画だから、「桃吾なら捕れると思った」と天才に認められる描写では桃吾は次郎を許したりしない。天才に認められて許すならそれはメリトクラシー社会の論理で、上下関係の中で能力を承認されて上に立つことが至上という漫画になってしまう。
桃吾が許せなかったのは自分が下に見られていることじゃなくて、次郎が桃吾(たち)の価値観を軽んじたことなのだから次郎がその事実を認めて謝罪しないと許したりはしないでしょう。
上下関係の論理と横の関係の論理が全く違うって示してくれている。
上下関係じゃなくてコミュニケーションが重視されるのはほんといいことだ、うれしい。
あと何気なく言った言葉が否定的に捉えられているとかも描き方めっちゃうまいなって思った。

そんなんだから、母親の母性感とか、姉妹の描写に漂うミソジニー感がちょっともったいないなあ、と思うばかり。