真昼の淡い微熱

感想ブログ

スキップとローファー9巻/高松美咲

志摩くんが友達のおうちお泊まりのときに手土産を持っていかなかった描写にこの漫画の魅力が詰まっている。
並みの作品ならそもそもそんな細かいところわざわざ描かないし、描いたとしても手土産持たせただろう。
だって助手席から気遣いしてナオちゃんに「ぐぬ」と言わせているのだから。

「そのくらい気遣いできるスマートな男なんだから手土産くらい持ってくるだろう」とか安直に考えない。
「志摩くんにそんな非常識な真似させられない!」とか肩入れもしくは読者への気配りによってキャラをねじまげたりしない。

志摩くんは、気を遣いすぎてしまって自分を使い減らす人だし、親からそんな世間づきあいも教えてもらえなかった人だ。
とりあえず「過去母親も追い詰められていただけで本当は志摩くんを愛していた」オチにならなそうだし、なんか母親は外見からしてド派手異常者として登場するわけではないけどナオちゃんに電話もしないし手土産も持たせない非常識さがある微妙な塩梅で安堵する。

そういう細部が徹底している作品が面白くないわけないんですよ。
迎井がいつもフレッドペリーのポロシャツ着てんのに初めて自分で服買いにいったらいちいち値段に引いてるのも……漏れ出るご家庭事情。

迎井の「薄情モンがと思ってるよ」もよかった。
みつみに対しても氏家くんから的確に短所指摘されてるとこもよかった……「一方的に「してあげている」という認識」!

ああでも、アニメも本当に本当によかったんだけど、アニメで振り返っててナオちゃんの描写にもやもやして。
そこで男性声優起用しなかったのはほっとしたんだけど、動物園尾行シーンで髪型変えてから戻すとこがうーん。
トランスジェンダーが、好きなときにジェンダーを着たり脱いだりできる」みたいな偏見の強化になっているから。
今巻もわざわざ「おば」に傍点つけんでいいのに。

志摩くんの恋愛観はそうじゃないかなと思っていたことが形になって明確化してすっきりした。
そのへんのヒント散りばめ方も上手いよね。
あ、あと絵がうまくて!人物の横顔の描き分けができる漫画家さん好き!

特別編 響け!ユーフォニアム~アンサンブルコンテスト~

しみじみよかったな~。
アニメ一期が2013?年……10年間……北宇治高校に閉じ込められた黄前久美子たちの青春……にうわっとくる。
オープニングの1年次→2年次→3年次写真に泣いてしまった。

1時間で見たいもの見れてちょうどよくまとまったし、ていうか体感もっと長かった。
麗奈がアンサンブルコンサートのメンバーに久美子を誘うとこ、誘われ待ちのとこ、かわいい。
京アニの、この「原作を一本筋にしてまとめなおすというよりはわりとファンが見たいもの見せたいもの満遍なく詰め込んでるのになぜか気持ちよくまとまっていく」構成技術が好きなんだよね。
リズは一本筋通したかな。
あーあと秀一と付き合うとこまで描くかと思ってたからなんもなくてよかった。
三期嬉しいけどそこは見たくない。

なんも気にせんでいったけどもらったランダム特典小説くみれいでよかった~!
てか原作はつまみぐいしかしてなくて武田さんはアンチ異性愛でもあるけどアンチ百合でもあると思ってたから(てかアンチロマンス)ストレートな萌え百合掌編でびっくりした。二重によかった。

違国日記11巻/ヤマシタトモコ

だ!か!ら!さあ!!!
言えよ!愛してるって!!!いえよおまえにはその義務があるはずだ朝というさみしい子どもを引き受けさらには愛してしまったからにはそれを素直に伝えるべきだなんのための「それでも」「それでも」だよ逃げてんじゃねえ予防線を張るんじゃねえ勇気を振り絞って自分から足を動かせソファに座ってないで身を投げてくれるのを待つんじゃなくてお前からダイブしろほんと腹立つ!!

切々たるこの空気をつくりあげる上手さ、感情が真に迫るからこそこんなに無性に泣けてしまうのにどこまでも槙生ちゃんを赦免するこの作品というものが柔らかい欺瞞をついぞ崩さなくて憎たらしい。

なんにも「それでも」などではなかった。
ていうか、まだ続くならわかる。
ようやく槙生ちゃんがその心の内を現し、以後どうしようもなく変化せざるをえなくなり、朝と距離を保てなくなって愛をぶちまけその期間を経て「適切な距離」とやらを測れるようになるまで描き切るなら。
いや、そこまでじゃなくていい、逃げずに「愛してる」と自ら口に出せるようになるまでを描いてくれるなら、違国が交わった意義もあろう。

なんだよ最後のポエムはよ。
朝は母親の愛の日記に満足したか?
母親の愛してるじゃ足りないくらいの言葉の羅列に納得したのか?
してないだろう。
どこまでもお前はビビリで自己防衛で朝の孤独に向き合うことよりお前の世界が崩れることを怖がってる臆病者なんだよ。
いいよなネットのコラムに流しておけば朝に向き合わずに自分の世界を崩さずにあわよくば読んでもらって愛を放流することができる。

生命保険に傷ついた朝に何も言わないの、本当に情けない。
情けない人としては描かれていると思う、けど、朝は弁護士に対しては「うける」で、槙生に対してはクッション投げて抱き着いて即座に許してしまう。
本当に都合がいい。槙生ちゃんの情けなさは深刻な影響をもたらすことなく朝の内に丸め込まれる。
「ぶつかっても修復できると思うのは社交的な人の考えですよ」という予防線で槙生ちゃんの臆病さはただただ許される。
「それでも」と言葉で言うくせに子どもに許してもらうばかり歩み寄ってもらうばかりで行為をしない違国交流になんの教訓があるのだろう。

ノローグでは本当に伝わる。
槙生ちゃんがどれだけ朝を愛しているか。だから泣けてしまう。
大切に思ってもいいよ。
それをちゃんと伝えようとする意志を持つまでになってほしかった。
まだ槙生ちゃんも戸惑っているんだと思う。からこそこんな中途半端なところで終わってほしくなかった。
奥ゆかしく秘めるのではなく自ら与えようとする行為こそが愛だろう。
行為しないことを免罪し、最後まで言ってることとやってることがちぐはぐな欺瞞だらけの作品になったのが心底残念だった。

D4DJ Groovy Mix メインストーリー第3章&イベントストーリー「サマーコード」

はやこことUniChØrdの話。

ソシャゲほぼやらんしD4DJなんぞや状態だったけど百合オタ向け以外のオタクコンテンツでガチで恋愛百合をやっていると聞きつけダウンロード。
メインストーリー、とりあえず「読む」+少しのゲーム要素だけのシンプル構成で助かる。
一応他の子たちも見ておくかと思い、side:novaとside:origin両方読む。ちまちま進める。

side:nova
思った以上によかった。
既にはやてと心愛は1年前から付き合っていて、その閉じた関係からUniChØrdへ広がっていくところがメインストーリーというところが。
そういう百合って昔だったら依存に閉じてるし、でなくても普通だったらラブライブ虹ヶ咲みたいな、「依存をやめて、外へも広がる」になりがち。
だけど依存が危ういという描き方でもなく、かといって閉塞をよしとするでもなく、安定的に依存しつつ支えを外にも求める。

私はずっとそれが見たかったんだよ!!!!ようやく時代が追いついた

心愛がミチルに敵意あったのも昔だったらそんな大した理由つかなかったんじゃないか。
そんで心愛が敵意あってもはやては別にミチルとも仲良くさせてもらいますよ心愛の孤独は自分だけじゃ埋まらないし、っていうスタンス~うれしい。
4人が孤独を持ち寄って、埋める、という話でそのうちのふたりが付き合ってる(ふたりだけでは埋まらない)ってなんかもうよくない……?(だんだん言語化をサボりつつある)

あと地味に心愛が母親が亡くなってる父子家庭設定なとこも良いと思った。
昔だったら逆に父親がいなくて「父性を欠いてるから女を求め~」とかになりそう。
はやてに母親の影を求めてるとかでも全くないし。

心愛のキャラクター、昔ならはやてに所かまわず甘えちらかしてそうな造形なのに常識人でオンオフ分ける子なのがとても好き。
まじではやここ、百合カプ今昔を語れるな。本気で比較したら一本書けるでしょ。

ルミナの正体を無理に暴きにいかないとかもよかったし、UniChØrdは本当各人が好きにやっても受け入れられる場所という雰囲気がする。
もっとミチルがみんなに迷惑かけたりとかそれを乗り越えたりとかするエピソードも見たいな。

ただ曲が微妙にイメージと違うんだよな。
『孤月』聴いてみたいな。
アリアの子たるルミナの持ち上げられ方に反してルミナがめちゃウマというわけでもなく美声が生きるような曲をやるわけでもなく。
ネオのCVがMay'nなのはそうだよなという感じなんだけど。

あと、ルミナの記憶の最後でネオに謝る父、てめえは都合よすぎ。許すまじ。
曲はPhoton Maidenが好きで、あとはハピアラのティオティオ島エピソードが好きかな。



サマーコード
いやあ、これも思ったよりカミングアウトに対して誠実だったかな。
「同性愛者が、受け入れられるか不安がって、勇気を出して、最終的に感動的に受け入れられる」
という型は古典的だし、心愛の「ふたりが大事だから怖かった」という吐露は微妙に素直すぎてイメージと違う感もあるんだが、やっぱりまだ、その型は必要ではあるのだと思う。
百合・BLジャンルでは「その型は古い。周りはすんなり受け入れるし、本人も特に意を決したりしない、特別感を出さない」がとっくに主流だと思うんだけど、社会がそうはなっていない以上、必要。
やっぱりここでも心愛とはやての性質の違いでバランスもとってて、はやては「可愛い彼女のこと自慢できるし、隠すことじゃないと思ってる」と言うのだ。

はやての前ではベロンベロンに甘える心愛が判明したのも萌えるんだけど、一番グッときたのはミチルのバーチャル海プレゼントかも。
せっかくリアル海まで来て海入らないのはルミナに遠慮させちゃうんじゃと思ったりもしたけど、バーチャル海はルミナのこと本当に思ってないと出てこないじゃないですか。
ミチルの能力の高さも伺えるし。
この子は本当に相手を尊重するとは何かを知っている。
相手を自分に引き付けるんじゃなくて相手の状況を想像して(エンパシー)自分が合わせにいく。
ミチルならカムしても不用意なこと言われないと思う。

ただ一点、最後に政治色を意図的に薄めてるのが本邦フィクションの悪いところ。
「秘密があってもいい」「カミングアウトしない意思も尊重されるべき」ここはとっても誠実。
だけど、心愛がなぜ秘密にしていたか、なぜ拒絶されるのを怖がらなくてはならなかったか、の答えは心愛の過剰な怯えではない。逃れようなく政治が関わっている。
社会が同性愛を想定していない、拒絶している、政治が拒絶するように仕向けているから。
それを誕生日サプライズの秘密と同列に置き、「秘密があってもいい」と一緒くたにするのは乱暴に過ぎる。
一応、「心愛がミチルに打ち明けないのは、サプライズのためというわけではないが……」と自覚もあるんだけど。

秘密にされることで相手に拒絶されているんじゃないのかという心情を描いたのはよかったと思うけどね。


はやここカードほしかったけど確定でもないガチャに何千何万は突っ込めないのでとりあえずiTunesでUniChØrd曲全部買った。

零合 VOLUME.01

文章が苦手な『躯躯罹彾㣔記』以外は読んだ。

して、がっかりした。
陶酔と死ネタと離別(行方不明)ばかり。これだから文芸の百合は好きじゃない。

百歩譲って陶酔はよしとして。奇抜な設定、豊かな発想をするすると潤沢な文章でまとめあげる上手さが光れば。
死ネタはさあ……もう見たくないんだよ、百合=死。
それって女が男なしで世をサバイブできる力を奪われてるからだし、女同士に将来が用意されてないからでしょ。その追認なんだよ死ネタ。
綾加奈さんだけが百合におけるその文脈を汲んで生と共生を選び取ってくれた。

『あーちゃんはかあいそうでかあいい』
→陶酔。最初の話だったから文章力を楽しめる余裕はあった。

『嘘n』『人よ、子らのスティグマよ』
→死ネタ。特に『嘘n』はがっかり度が高かった。
 ドライブ感があって読ませるのに、あ、もうどこかで見たそれねー……ハイハイ。
 ヤクザに接近して百合セックスして死ぬ。
 『人よ、子らのスティグマよ』はSFテーマ「AIにとっての愛とはなにか」とスワンプマン問題を扱ってるだけよかった。

『セイレーン』『ドロステの渚にて
→陶酔×死ネタ、離別ネタ。

『過去にはなく、未来にもなく』
→これだよーーー。綾加奈さん。
 これが見たかった。社会に居場所がない女。搾取してくる男、とその抹殺。心中。火事。
 からの、それらをかなぐり捨てての生。

『不安スポンジたち』
→あとこれは唯一文芸百合としてよかったかな。
 百合か……?と最初思ったが、階級と連帯の話だった。

『東京デザート2019』
→総括、私の不満を嘲笑うかのような勢いがあった。
 他と毛色が違ったしメタが散りばめられ漫画投稿と執着と奇跡。最初の女と別れて次につながる第一話。
 好みではないけど他があんまりだったからいいね。

マイ・ブロークン・マリコ(映画)

原作はだいぶ前に読んでて、骨壺ひったくったところで終わりの作品だと思ってたからその先はほぼ映画オリジナルだと勘違いしながら見てて、見終わったあとに原作読みなおしたらわりと原作まんまの映画だったと判明してびっくりした。

そんで読み直してて急激にこの作品が相対化できてもっとびっくりした。
2020年ごろの作品の象徴だと思った。
マリコは既に死んでいる。
社会の、もっと言えば男の暴力に耐えきれなくて死んでいった無数の「女たち」の亡骸がマリコだ。
江南駅事件的な文脈を背負う「私たち」がマリコだ。

この作品で描かれるのは女の連帯、あるいは連帯できなさ、などではない。
どこまでも救済する/されるの構造が横たわっている。

マリコに託されるのは
「私は簡単には救われないことをわかってほしい」
「けれども無条件の献身で救おうとしてほしい」
「自分では立ち向かえないけど怒りを代弁してほしい」

椎野に託されるのは
「私たちを私の手によって救いたい」
「けれどもそんな力がないことが歯がゆい」


思うに2020年ごろのフェミニズムは、自己を獲得して手と手取り合うような、もしくはそっと寄り添い合うような形の連帯は求められていなかったのではないか。
深い傷つきがあって、それを誰かに救済されたかったのではないか。その裏返しに誰かを救いたいというメサイアコンプレックスがあるのでは。
それはBL文化の延長線上にある。
そう考えると男ジェンダーに迂回せずとも女ジェンダーの苦しみを描くことができているのは、かつてのBLが内包していた内面化ミソジニーから一段解放されたからではないかとか。


百合という箱の中には様々な文脈があると思う。
私は百合に「女が好きな女としての自分」を投影しているけれど、女を客体化したい男との交点もあるし、女としての自分を救ってほしい女との交点もある。

マリコの父親が包丁向けられた瞬間椎野をマリコと見まがうとか、「シィちゃんから生まれたかった」とか、
私は別個の存在として女を愛する女を描いてほしいからそういう描写は嫌だけど、椎野に癒着的な救済や代弁を求めるのなら必須なんである。
(非常に、嫌だけど。「女たち」を描いてほしいのであって、「(同一視した)私たち」を描いてほしくない。お前を救うために女がいるのではない)

もちろん交点はあって、
映画で「あんたにはあたしがいたでしょうが!」
にはぶっ刺さって泣いた。

ナリタマキオと椎野が恋に落ちて女が男に救済される不安と、それを覆す叫び。
映画版は過去エピソードが付加されて、男に翻弄されるマリコが「シィちゃんみたいにぴったりわかりあえる人がいたらいいのに」みたいなことを呟くのだが、それがいっそうヘテロセクシズムの犠牲になったマリコのもの悲しさを浮き彫りにする。

女同士で社会を渡るのは心もとなくだからマリコは椎野に救済されない。椎野はマリコを救う力がない。
女は女のセーフティネットになれず、男は女を搾取する。
だからマリコは死ぬしかない、が、ナリタマキオのような善良な男だったらマリコを救えたのだろうかという可能性が現れた瞬間に、椎野がヘテロセクシズムにマリコを取られる悔しさを爆発させる。
ここね、ここには交点があったと思うよ……。

永野芽郁さんの箸を口で割るしぐさ何回でも見たいなと思ったら何回も見れてよかった。

あのこは貴族(映画)

序盤の婚活迷走がなかなかに面白かったな。
門脇麦さんが目まぐるしくお着換えしていく上品でお洒落な服を眺めるのも楽しかった。
似合う。

私はなんでか知らんが強さに縛られて苦しむ男(とそこから解放されていく男)が好きなんで幸一郎に「女に救われてほしい」と思ってしまった。
だから華子が幸一郎を見捨ててなんだか悲しかった。
「華子は結婚してくれただけでいいよ」「そうするものだから。華子が俺と結婚したのと一緒」は結構愛おしい。
ちらちらと見え隠れする無自覚な加害性、構造への加担と諦念、それは真綿のような苦しみとして描写される。
あからさまなDVなどが描写されなかったのは意図的だろう。(加害者として描こうとしてるのか?と思ったりもしたけど、その意思はあるっぽい)

しかしそれなら政治家立候補する幸一郎を支える苦労とかももっと描写されてほしかった。
義実家の重苦しさや義母の圧力とかはかかるけどいや日常的には悠々自適に暮らしてるじゃん……そうなると離婚は生活の苦しみとかと切り離された「自分らしさ✨」の達成のためでしかなくなるじゃん……。
真綿のような苦しみからの解放、という物語が採用されるところが、なんとなく「日本の邦画を見る層」向けの話だと思う。


構造が少女漫画なんよね。
一人の男を挟んだ女ふたりの話としてはこの、争わなさ、むしろ微かな連帯……めいたものが描かれる新鮮味はあるんだけど、話の構造は昔からよくある少女漫画だと思う。
周りに流されて生きてる主人公が、周りの目を気にしない主体的な女(あるいは男)に出会って自分らしさを獲得するという。

ただそこに絡む階級の話としてはふわっとしてるなと。
時岡美紀は地方の旧中間階級で、大学は辞めざるをえなくなるけど実家には帰れるし一人暮らしもできる。貧困層ではない。

ただ「東京は私を搾取して成り立っている」はポストネオリベラリズム時代のセリフだと思った。
地方を出てきても解放はそこにない。

でも時岡美紀が友だちと起業即断するシーンはすごいよかったな~。
華子と美紀が友だちになるような話ではないバランス部分もよいと思った。

ささめきこと/いけだたかし 全9巻

再読。
昔さらっと一気読みして「好みの百合じゃねえ……」とモヤモヤして手放してしまったんだけどkindleセールで買い。

やっぱ好みの百合ではないし、あの頃好みの百合なんてもの自体が全然なくて「私は百合が好きなのに百合は私が好きじゃない……」と苦悩していた懐かしさも思い出すが、「あの頃の百合」の中では抜きんでて誠実だった良作だろうと思う。
朱宮くんの扱いはてんでダメだし恐らく今のいけださんなら絶対描かない容姿ネタ外国人描写等々や2000年代ノリの若さも見えるが、それでも。

ヘテロの女に恋する女の片想い」の憐憫に萌えの比重があった時代に「レズビアンの女に恋する女の片想い」なんて設定で通してくれたことでどれだけ安堵したことか。
そこも懐かしく思い出すよ。
いけださんの反骨心と嗅覚に今も信頼がある。
最終巻なんか、あの頃の作品なら高校生で終わってお茶を濁すか大人になって仲良くやってる数ページで終わるかなのに親にカミングアウトして「今は結婚できないけど いつか――」で終わるんだもんよ。
「普通に恋の話でしょ?」とか。
責任を感じる。

ただいけださんの得意分野は『34歳無職さん』『ふたりはだいたいこんなかんじ』なんだろうな。
片想いから両想いになるオイシイところを全くロマンチックな流れにできてなくて笑ったもん。
ロマンより日常がとことん上手い。稀有な作家性である。
その意味では蓮賀&当麻の日常回も読みたかったかなー。
単話では蒼井さんの仲間ほしい暴走回も好きだったけどまあライブ感も含めてだろうか。

あとロッテファン作者がキャラに「ロッテ」て名づけるの直接的すぎておもしろ。