真昼の淡い微熱

感想ブログ

天使のはしご 全5巻/名木田恵子

ついに引っ越し時に処分→結局買いなおしに手を出してしまった。
青い鳥文庫……わたしの青春。
内容は全く覚えてなかったのに挿絵だけほぼすべて「み、見たことある!」って嬉しさが湧いて面白かった。
若おかみは小学生!』の映画を見たときは内容の懐かしさもあったのになー。

加害者と被害者の交流を名木田恵子はどう描いていたんだっけか? と思って。
まあ、予想よりは面白かったけど、予想通り軽い感じだった。
まず父が母を殺害した現場を目撃してしまった子ども、重すぎる……。けどかるうい。
留置所に面会に行って「来てはいけない」と泣かれただけで軽くなる心……。
全体的にトラウマケアが軽い……ただ想志の優しさの描写だけがめちゃめちゃに上手い。そりゃ癒えるし惚れる。
(のにさらに深刻なトラウマを植え付けて死ぬ想志……)
お母さんのこと恨みもするけどたまねぎで靴下染色もする紅絹の健気さよ。

これ金返したあと竜人とどうやって接点作るんだよと思ってたら完全に「紅絹おもしれー女」枠で強引に惚れられていた。
状況が深刻なだけで完全にあの頃の少女漫画って感じ。
他の女とは違うから惚れられて恋に落ちる。
竜人紅絹の住所勝手に免許証にメモるし帰ってくるまで何時間も「忍者みたいに(本人談)」土手に隠れてるし父の面会行った日に最小の情報で紅絹の乗る新幹線探り当てるし着いてきて何時間も待ってるし怖すぎる。
紅絹から竜人に接近することないから竜人をストーカー化させるしかない。
途中から紅絹が軟化して「あなたは悪くない」とか言い始めて終わる……いや、悪くないんだけど。竜人の心の消化が見えんくて、いや過酷すぎるから児童小説でそこまで見えんでいいんだけど、気になる。

とりあえず紅絹が元気よく動き回るし意外とイベントが次々発生するから面白かった。
林さんのミソジニーがきつくっていとおしかったな。
父母が夫婦別姓を選択したいから事実婚していることを誇っていて、「かわいい」って言葉は見下しが含まれるから嫌いで、だけど紅絹の陰口を言う同級生には「女って卑しいから」と女と自己を切り離したい内面化ミソジニー女子中学生。

紅絹の母がポリアモリーであることを匂わせたりおばあちゃんと関根さんを恋愛関係ではなく「かけがえのない他人」扱いしたりと、こう、読者の少女たちに届いてほしいという願いが込められていた。
おそらく私にもその願いは届いていたから今こうしている。
やっぱロマンティックラブイデオロギーを植え付けてきたのも少女漫画少女小説だけど、反ロマンティックラブイデオロギーを与えてくれたのも少女漫画少女小説だったのよね。
という愛おしさ。『キャンディキャンディ』もわりと好きでした。

正反対な君と僕~3巻/阿賀沢紅茶

ようやく私の時代が来ているな。
なんかこうストレートに温厚で素直な大人しい男の子がメインに来る恋愛漫画
ゆっくり進んでほしい……。

東の友達の「選択も決定も意思表示もサボるな!」が良いんだけど、主人公たちがそのへんをまるでサボってなくて偉いよね。
告白とかキスとかがどちらも受け身じゃなくてふたりで関係作っていこうとする。
少女漫画も少し前から女が積極的になってきてるし男も温厚になってきている。少しずつ。

従来的な部分も取り入れたのが西さんと山田であるが。でも山田もこういう三枚目キャラが恋愛ストーリーに参加するのも珍しいような。

鈴木も平も東もなんか……ひとりでもやっとするんだけど爆速でひとりで答えにたどり着いて変化していって偉い。
……と同時にそんな、、ひとりで抱えなくていいんだよ、、その態度は今っぽいけどもっとトライアンドエラーでいこうよ、、とも思う。

嗤う日本の「ナショナリズム」/北田暁大

アイロニカルな態度がベタに転換する流れ

建前=自らを「標準」と信じて疑っていない(「戦後民主主義」「左翼」 「マスコミ」)
実態=建前の存在を知っている(対抗馬としての「ナショナリズム」「保守」)

アイロニー者は「建前に隠された本音を語る」自己像に酔う。本音語りはマウント手段である。
建前を語る人は実態が見えてない(とされる)が、本音を語る人は建前の存在を知りながらあえて語るわけだから、後者のほうがメタに立てる。

この優位性によって、建前/実態のズレを指摘するアイロニカルな見方が自己目的化していく。
「建前と置実態の差異を見出し標準とされる語り口から距離を置く」メタ自体が、2ch内でのコミュニケーションツールとなることも、アイロニーの自己目的化を促進した。

自分をメタ側に置くためにホンネに走ると結局ホンネ側をベタに信じているのと同じになる。
建前/実態の差異を無理に読み込もうとすると陰謀論まっしぐら。(アイツはキレイゴト語ってるけど本当はキタナイんだ)

この2ch的なアイロニカルな見方は80年代テレビからの影響。
80年代テレビは大衆に「テレビに映すものはすべてはテレビの素材である」という意識を埋め込んだ。(テレビの素材として見るからこそ、例えばスポーツ選手がテレビ的な「感動」の型に当てはまらない振る舞いをすると叩かれる)

80年代テレビがアイロニカルな見方を提供したからその見方でテレビを見返すことを覚えた大衆。かつて2chの「マスゴミ」嘲笑はテレビへの愛着あるいは愛憎を含んでいた。
80代のアイロニズムでは「何がベタで、何がメタなのかの基準」を設定していたのは「マスメディア」「資本」などだったが、2chではそういう大きな設定者がいない。
代わりにコミュニティ内の他者がメタを承認する。この承認への欲望が肥大することで、アイロニカルであること自体が目的化していく。

『終わらない「失われた20年」 嗤う日本の「ナショナリズム」・その後』では笑えない左派のシニシズムも出てくる。
内田樹の「ためらい」。
純粋に熱狂してコミットするのは危うい、一度ためらわないといけないとシニカルに構える。
しかし次第に「ためらい」を解除して、「自分はためらったんだからいいんだ」と自分のコミットに価値づけをする。(例:反安保運動)

「嗤う「ナショナリズム」」においてはそれが「普段はメタを指向して俯瞰した気になって嗤うが、次第に「自分はメタに見た上で選んだんだからいいんだ」とベタへ熱狂していく様となる。
それが現在に蔓延したネトウヨや反左翼、反ポリコレの熱狂の正体。

死刑になりたくて、他人を殺しました/インベカヲリ★

・あとがき
 取材対象がみんな無差別殺人犯の心理状態に理解を示したことで、「この気持ちを持つことはありうるんだ、否定されないんだ」と著者の希死念慮が消えた話がいちばんよかった。(担当編集者さんはいちどき希死念慮癒えた……だけなのも含めて。)
 セラピーになる。

・刑務所内介護
 他の懲役刑者が介護をするらしい。
・刑務官は親しくなった人を死刑にする
・死刑囚はお務めしない

・懲役刑者がいちばん改心しない
 死刑囚、無期懲役囚は自分の先行きが決まる。

・「ごぼう抜きする」
 人生に躓くと一発逆転を狙う。東大合格、そして殺人。
バンジージャンプ 殺人に対する勇気
 「殺人は勇気がいる」が、テンションがハイのときとローのときとでバンジージャンプへの勇気の持ちようが変わったように、そのときの心情によってどれだけの勇気が必要かは変わるのではないか。
・世間が狭いと極端いく
 少しのワルを見て「こういう人がいるんだ」と実感。
 高卒でできる仕事は美容師しかないと思っていた、でも自分は手先が不器用だからできない→詰んだ。

・話を聞く人
 心理学を学んで鬱だったと知る。
 ぼろぼろ状態で無銭飲食して許されて赤の他人の店長に「また来てね」と言われる、救われるけどそんな美談で人は変わらず、五度目の自殺未遂をしたときに極限まで行って目覚めたら頭が妙にすっきりして希死念慮が消える。

加害者と被害者の"トラウマ" PTSD理論は正しいか/笠原敏雄

まずPTSDをごく狭い範囲で扱っているのではないかという点、PTSD理論(トラウマになる出来事が起きたら必ず異常症状が起こる)が万人に適用されるなんてPTSD論者も言っていないのではないかという点、直近で何かが発生したときに後づけ的に原因を求めているなんて理路はトラウマの時差攻撃を甘くみているのではという点、著者の言う「幸福否定」だけが被害者PTSD発症原因だなんてひどすぎるという点。
これらは疑問あるけど、意外と概ね掘り下げが面白かった。

・責任を突き付けられることの苦痛
第二次世界大戦で民間人の虐殺行為を行った日本兵は戦後もPTSDに苛まれなかったが、ベトナム戦争で同じ行為をしたアメリカ兵は苛まれた。理由は帰国後世間から責められたから。また、苛まれたアメリカ兵も白人より黒人のほうが多かった。
良心の呵責、罪悪感が生まれると人は苦しむ。
とっとと死刑にしてくれと願って願い通りになった宅間守。苦痛なる責任意識を回避するためなら死んでもいい。
服役囚のPTSD症状→裁判中が一番強く出て、刑確定後、服役中は責任から目を逸らすことができるから収まる。
ミルグラム実験詳細:責任から逃れられる人ほど残虐になれる。従う権威があれば残虐になれる。実行役を別人にするなら自分の責任が軽くなるので無抵抗だし、権威が席を外して自分に責任が降りてくれば抵抗が発生しやすい。

・被害者の主体性
ここはエイジェンシー概念挟まないと本当に容易に被害者に責任を迫る転倒が起こる。
死すら受け入れる服従。抵抗で虐待をやめる親に対する服従。責任を放棄できるメリットもあろうそれはもちろん。

最終的には自分の人生に責任を持つことでしか人は立ち直れないのだと思う。
加害者トラウマの章でまとめられた、「責任回避状態:偽りの安定、責任突き付けられる:鬱・苦痛・拘禁症状、責任完全に請け負う:幸福・安寧」は私も実感としてそうだと思う。
ただ、「責任を負う」に至るまでの道はひとつしかないと一般的に語られこの著書でもそのニュアンスを感じるが、私は常にふたつあると言っておきたい。
ひとつ、常識として流布しているのは「他責をやめて自分の責任を取る」。これで上手くいく人もいる。
ふたつ、「必要以上に負っている自己責任を返上して思う存分他責したあと、改めて自分の分の責任を取る」。もうこのブログでも何度か触れている話だ。

ゴーン・ガール

最初の感想は「思ってたよりずいぶんミソジニックな映画だったな」かな。
女怖えの文脈。
最後の血まみれ帰還や、自分の妊娠を脅迫取引にしているあたりもそうだし、何より「性暴力を受けた被害者の女が実は加害者側だった」て筋書も。
 
ただまあそう言い切るには据わりが悪くて、資本主義社会で「自立」に失敗した女の追い詰められ感、救いのなさ、そういう哀愁を含んでいる。
計画は行き当たりばったりだったが結局彼女は持ち前の「(新自由主義的な臨機応変、自助の)能力」で一発逆転に成功したのだ。
 
リーマンショックの煽りで職を失い、夫に連れられ田舎で孤独となり、DVされ、不倫され。夫もダメだし、復讐で殺させて一発逆転しても死ぬから負けだし、金もなくなるし、頼みの支配者元カレも絶望だし……。
彼女には崖っぷちのそういう人生しか残されていなかった、唯一生き残れる道が支配者になることだった、そういう。
 
金を奪われて枕に顔うずめて叫ぶシーンがいちばんなんか……よかったかな……。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

なんか興味深かった。
描かれている内容にまったく賛同も思い入れも好ましさもないのにこんな面白いって思えるんだ……と。ほぼほぼネタバレ知ってたのに。
まあ逆にほぼネタバレ知ってたから「うわあ……」なところに「うわあ……」と思わなくて済んだのかも。

新劇場版とりあえず全部見たけどあんまりよく覚えてない。TVシリーズもあんまりよく覚えてない。

なにが面白かったのか?
ってよくわかんねえんだよな……よくわかんねえけど面白かったから凄いね。

凄い今さらなんだけど庵野秀明が『彼氏彼女の事情』好きなのめちゃめちゃわかるわ。
宮沢雪野は女神だもの。てことはお前有馬に感情移入してたんか……。
いやわかるよカレカノ序盤の「必死に守ってきた脆い自己像の殻を破って傷ついてでも他者と関わる」描写私もめちゃ好き。
エヴァのメッセージはカレカノ2巻まで読めば過不足なく伝わる。


あんなにうだうだうだうだしてたシンジが急に落とし前つけられる大人になる。
その過程こそが一番重要なんだけど、過程を丁寧にやるには商業規模がでかすぎる。
いやエヴァほどじゃなくても一般TVアニメくらいの規模でやるのすら向いてない。
丁寧な成長過程、丁寧な人間関係、丁寧な対話、丁寧な引責は。
だから象徴性に頼らざるをえなくて、一足飛びになる。

特にエヴァはエンタメとしては面白いのにいちばん伝えたい「現実で他者と関われ」のメッセージを伝える方法だけがなぜかガチャガチャに下手くそで、それは本作も同じ(だけど一番穏当だったし、一般アニメ平均の範囲内だった)。
そのアンビバレントさがたぶんエヴァなのだと思う。

いや、唯一なんだかんだ「気持ち悪い」では一定の成功があったのかな、オタクの感想を見てみるに。
当時の衝撃の空気感は知らないけど。


上手いのは、シンジが「大人になる過程」にあやなみを挟んだこと。
シンジが経るべき人間関係の触れ合いをシンジ本人にやらせずにあやなみを通してあたかも疑似体験しているかのように錯覚させる交錯。
なんたる省略、なんたる効率、なんたる大胆さ。おかげでだれない。

そんでまあ以上を含めると「大人になる過程」、一応描いてはいる。

①引き受けるには重すぎる現実に直面する
②現実逃避、葛藤、他者の拒絶
③他者を利用した自己憐憫的な肯定(カヲル、アスカ、綾波

①~③繰り返し 今までのシリーズすべて通してひたすら繰り返し

④人の優しさに触れる ケア
⑤他者との交流(シンジではなくあやなみの経験)
⑥他者との適切な距離を見つける(あやなみと握手)
⑦自分の起こした結果(あやなみLCL化)を前に、責任を引き受ける


こうして眺めると自分のもんやりがわかる。

・いや執拗すぎる①~③に比して④~⑦が今回限りの駆け足(しょうがないけどそれにしても駆け足)

・⑤と⑥の間が重要なのにそれがない!
 交流して失敗して修復するひたすらのサイクル作業が必要なのに……散々剥き出しの傷を描いてきたこの作品が言いたい「大人」になるのならその過程を飛ばしてはいけないのに……。
 だがそういうサイクルはアニメや映画規模の領分じゃないんだろう。

・できれば④~⑥のどこかで重すぎる現実を軽くするために一旦全部責任を父に転嫁してほしかった
 一旦無垢にならないと自分の分の引責ってできなくない?なんかシンジの「落とし前をつける」、自分の分だけじゃなくて父親の分まで負ってない?

・できれば③と④の間も見たかった
 誰の助けもなくのろのろと一人這い上がる瞬間が。これは完全に私の好み

・肝心の⑤がクソサム陳腐(でもネタバレしてたのでひとまず引かずに済んだ)

そんなもんで特に⑤と⑥の間がなかったからシンジがゲンドウに「弱さを認められなかったからだよ」とか言ってもお前は認めたんかよいついかにして……?と思った。
全く描かれてないとは言わないけどやっぱ象徴に頼りすぎてる。




あとゲンドウ回想の事後シーンで引いた。
シンジのキモさは徹底的だったから開き直りの清々しさがあったがゲンドウは一瞬薫るだけなのでシンプルにキショ……。

残酷な天使のテーゼ』は名曲なのでいくらゲンドウが女神としてのユイを求めようとその裏を透かし見ることが可能になっている。

TVシリーズほぼ忘れたけど、一番強い印象は「理想の父性を体現できずに苦悩する男シンジwith理想の父性を求めて男に依存せざるを得ず苦悩する女たち」の話だなということ。理想の父性を持たない(?覚えてないけど)無垢な綾波ならばシンジを受け入れてくれるかも……の淡い期待を取り混ぜて。(そして父から離反してくれる)

エヴァはシンジ本位の話なので本来「父(神)なんてなれないまま私は生きる」って話だったんだけど、『残酷な天使のテーゼ』は理想の母性を体現できずに苦悩する女たちに注目してるのが偉いところだと思うんだよ。

ユイは死んでるのでネオリベ的女性像(科学者としての労働と際限なき母性(女神)を両立させる)を体現できる。
というのでこのアニメでは徹底的にゲンドウの中の女神しか語られず、死人に口無しのユイの胸中は『残酷な天使のテーゼ』の中にしか表れないのがそわっとするのだ。(しかも最後もゲンドウ引き連れて心中しくさったしな)

----余談-----------------------------------------------------------------------------------------------------
理想の父性を体現できない苦悩とは男性ジェンダーへの「(男として)戦え落とし前をつけろ」の圧から来ている。
理想の父性を求める苦悩とはネオリベ時代の女性ジェンダーへの「(男並みに)戦え同時に(女神として)全てを受け入れよ」二重規範圧から来ている。
女性ジェンダーは「頼る」が許されているから男に依存することが可能である。シンジは男だから誰にも依存できない(カヲルくんも儚い)行き止まりの苦悩がある。
その代わり女たちには相反するような二重規範が課せられ引き裂かれる苦悩がある。だからこそ理想の父性を求めることで葛藤を解消しようとする。

男に依存する女たちは御しやすく、だからたとえ気持ち悪いと言われても「でもシンジの支配下にある」ことが安心感をもたらす。
「気持ち悪い」に傷つき他者性に触れたオタクは正しく庵野秀明のメッセージを受け取ったと言えるが、安心感まで嗅ぎ取ったオタクは庵野のメッセージを超えた、のではないか?わからんけど

----余談-----------------------------------------------------------------------------------------------------


てかアスカ、ケンスケによってあっさり理想の父性を手に入れていいんかい。いいんだな~。
「子どもに必要なのは恋人じゃない。母親よ」がいちばん痺れたな。


アンチ資本主義としてのコミュニズムは今とても台頭してきてほしいのにコミュニズムの想像力がこんな第三村の形までしか及ばないんだったらまだまだ資本主義が後退する気配ないだろうなあ、って思った。
資本主義によって連帯を解体され個人個人に分断された我々は、しかしながら個人となることの恩恵をもはやインプットされてしまっており、コミュニズムが第三村の形しか取れないと言われたら、いやそっちには行きたくないので個人でいいです……となってしまうよね。
違う形ほしいね。

対峙

凄かった……。

終始泣いていたなんの涙かわからないけど。

修復的司法の映画と聞いて見た。(からまじで4人だけで第三者が立ち合いしなくて最初びっくりした)



きっつい。
正直アメリカに住んでいたら見れなかったような気がする。
それほどに報告書を何度となくなぞってきたジェイの叫びがきつくてきつくて……。
4人の珠玉の演技力を見せつけられる作品……。映画は監督のもの、演劇は俳優のものと言うけどこの映画は脚本と俳優のものだった。



白人と白人の話か、と思った。差別構造がからまないんだなと。
しかしあとで知るアメリカ銃乱射事件が年間400~600件て……そこに潜むのは差別問題だけではないな。(傾向も何も知らんで言うけど)


「なぜ、このわたしが」「どうして、こんな目に」
なんらかの被害を受けたとき、このふたつがまとわりつく問いとして立ちのぼる。
知りたい親だったのだろう。答えがないとしても知らなければどうにもならなかった親なのだろう。10人の被害者のうち。

ニューロ、サイコパス、ゲーム、ネット、銃を持つ友達、射撃場といった安直な理由をつけなければこの問いの重たさに耐えきれないジェイの苦しみが思われる。
答えがないなんて、そんな理不尽なんて。
脳細胞の説明をしだす、話したいんだと押し通すジェイ、そこにある感情が伝わる。


一方でそういった安直さを厭うリチャードの拒否も、一面的には真っ当だと思う。
理屈としては人間は単純ではないのだからと拒否しなければならないものだ。
それは恐らく散々わかりやすい理屈にまとめあげてきた世間の暴力からの防衛反応を再現であろうとも。(そしてその世間からの被害に着目した反応は、被害者遺族から見れば呆れるほどの無責任に映る(が、これは日本文化から見た見方かもしれない))


実際の当事者たちが既に不在のまま被害者と加害者が混濁してから再建していく、そこが醍醐味だから、ラストのリンダの告解が「答え」として提示されてしまったことは残念だと思った。
この、一度の会合ですべてを納得できるわけがない、再会を約束して、リチャードが言い淀んで終わる歯切れの悪さがちょうどよいと思ったので。
いえ、リンダが告解した展開自体はとても良いのだけど、単純さを肯定してしまわないかという気がかりが残るというか。

家に不在の父、良い成績を押し付ける母。「親に問題があったのでは」と責める権利は被害者遺族にはあるけれど映画としてはそこで止まってほしくなくて、父母をそこに至らしめ、子を事件まで追いやる社会構造の話まで手を伸ばしておきたい。



世間が求める加害者像は法廷で『慟哭』した林郁夫だろう。
サリンを作って散布した実行犯。
どれだけ重い罪を背負っているか実感して苦しみぬいて反省してほしい。
どうしてほしいかと訊かれエヴァンを取り戻したいと呟いたゲイルの切望はやるせなく、次点でそういった後悔と苦痛をリンダとリチャードに求めていることが明かされる。

しかし恐らくゲイルとジェイが望むような反応をリンダとリチャードは返さない。
すっきりと単純な因果論に収まって反省することも愛する子を責めきることもできず一番前面に窺えるのは6年経った今も抱える戸惑いである。

それもまたひとつの「答え」である。
通り一遍の反省や後悔や苦悩の慟哭を見ることだけが癒しではなく、単純な親原因論だけが答えではない。
感情の応酬そのものによって癒えるものもまたある。




終盤、ゲイルが「赦します」と言うのはキリスト教圏だからか。
赦さなければならないわけではない。赦してはならないわけでもない。
今日、この日、ゲイルは赦したくてここに来たのかもしれない。
手放さないとつらい、どうにかして手放したい。最後にリンダを抱き締める「赦し」は、それで赦せるものかはわからないし、もしかしたら「赦した」ことでのちに苦しむかもしれないけど、少なくともあの場では癒えがあった。


リチャードが当日何をやって何を感じたのかを知りたいゲイル。。
それでまた癒えるものがある。わかるものがある。無意味にこそ、余剰にこそ宿るもの。
ここは坂上香さんが上手く論じていた。

>しかし、ノイズこそが凍っていた被害者の父親ジェイの心を溶かし、妻ゲイルと結びつく瞬間を観客は目の当たりにする。加害者の母親リンダがゲイルに贈る手製の花束も、ノイズ(邪魔物)の一つだ。花束が両者の壁になり、結局脇に引っ込められるが、会合の終了後、この花束をめぐって再度一悶着起こる。そして、リンダは会合で明かせなかったことを告白する。



「あなたたちのストーリーとは全く違う」ことがわかっていく過程が凄かった。
リンダはしきりに「何もない」と話す。子どものことをなにも知らない空白さがふたりにはある。
タツムリしかない。序盤に語るだけの。
そこに親子の関係を示すストーリーはなにも。
それに比べてゲイルたちのストーリーの豊かさが。そういうストーリーが、そういうストーリーを打ち明けることが、4人を部屋の隅にまとまらせた。
6分を叫ぶジェイ、泥だらけを語るゲイル、現場の状況を暗唱するリチャード、「運命を決めた人の顔は穏やか」と最後の幸福を憂うリンダ。
リチャード、そこにしか感情を乗せられない苦しみが……。

散々責められてきたのだろうとすぐわかる、リチャードの防衛反応は。
「ちゃんと対処したつもりだった」「でも間違えた」は先回りの肯定で、これ以上責められないようにするための、これ以上考えないようにするための反射。
それが被害者遺族から罵倒を引き出すことになるのだが。


リンダの「罵倒のメールが来るたび思い出す」にはさすがにゲイルは忘れることなんかできないのに迂闊な……などと思いはしたが。

あと、「私達を愛しているから殺さなかった」は哀れというか、想像でしかないけども、親を殺したいんじゃなくてこうして苦しませて報復したかったのでは……とか。



劇場を出てふと、佐世保の小学生殺人事件の犯人は生きていれば今30代だなと思った。
「いつか謝りたいと思ったときに、父親が一切の繋がりを断ってしまっていて気まずくて連絡が取れないとなったら示しがつかない」からと被害者遺族に手紙を書き続ける父親は今も続けているのか。

単純な犯行動機、単純な親原因論、単純な反省物語では語りきれない。