真昼の淡い微熱

感想ブログ

燃ゆる女の肖像

見ました。
配信来そうだから映画館で見るか迷ったけど、静かな映画は家で集中力もたんな……と大人しく映画館行った。

映画館で見てよかった。
今日見なければたぶん一生見なかった。
やっぱり静かな映画は退屈である。挫折してたはずだ。




この映画は、楽しんで消費するにはあまりにも「現実」すぎる。
評判がよいのだが、時代を背景にあっさりと結婚して終わる束の間の恋というあらすじを聞いた時点で「またそれか」と「見たとしても私は結局女と女の別れなんじゃないかと言ってやろう」と思った。
君の名前で僕を呼んで』とかも私無理だと思う。
「結局女と女の別れ」以上のものがあるのなら、それを見に行こうと。




退屈だった。
それが海辺で駆け寄るシーンで急に号泣へと裏返った。
私は相手を求める身持ち崩した人間の感情にしか興味がないのだ。
時代ものでないと同性愛の儚い悲恋を描けない。現代。
けれどあまりにも「現実」すぎる。
なにが儚い悲恋だ。
いやだいやだいやだ。
最初の再会。28ページ。いやだいやだいやだ、と思っていた。
このマリアンヌの感情を誰にも消費されたくない。ひとやまいくらのロマンティックに捨て置かれたくない。
マリアンヌがロケットペンダントにエロイーズの絵を描いたとき、「私にもくれ」とねだるエロイーズに感情移入して仕方なかった。崩れるほど泣き叫びたかった。
そうだよ。ほしいよ。あなたには肖像画があって私には思い出しかないなんてゆるせない。私もあなたを永遠に撫でていたいのだ。
「あなたが私を見るとき、私もあなたを」。相互間の視線のまざりあいがこのおねだりで顕在化した。そうでありたい切望をテーマに。



将来の身受けを前提にした全寮制閉鎖環境女子校ものの上位互換である。
全編見たあともこの評価は変わることはない。
「結局女と女の別れかよ」以上のものではない。
こんなにつらい、あなたとわたしのお別れを、儚く美しく切ないひとときの幻想として描くなんて、私の大嫌いな恋愛の美化だ。
男がほぼ出ないなんて、信念だろうと思うけど、男に壊される関係なのに男が出てこないなんてふざけるなとも。
愛しいあの娘とこんなにも悲しいお別れをしなければならないつらさと醜さと理不尽さをけして美化せずに寄り添ってくれるのは『あの娘が海辺で踊ってる』だけだ。
美しいキス、美しい指先、美しい炎のすべてが許せない。

ただ、マリアンヌが描き終わる=関係終了の示唆をして「抵抗してほしいの?」とエロイーズがキレて、海辺で赦しを請うてから、それまでの丁寧な(そして退屈であった)関係の積み重ねが決壊したところからずっと泣いていた。
すでに性関係のあった後だというのもいい。
それぞれ感情が決壊した直後唐突にシーンが切断される構成が心を揺さぶる。

振り返らない。
それが抵抗だとしてなんだというのだ。
マリアンヌが振り返って孤島の関係が遮断した。オルフェウス
けれど続きがあったではないか。遮断して終わっていたらわりと「ほら、女の子は死ぬ」と突き放したろうけれど、続きの人生が描かれて、よかった。
あなたのいない人生を生きます。
ミラノの音楽を知ったエロイーズの振り返らなさは、美しく、このラストカットがあってよかった。
「愛しいあなた」の愛しさをこんなに映し出してくれるのだ。
安易に復縁する嘘もほしくない、でも振り返って終わりの関係でもいてほしくない。
どうかこの恋の続きが、どうか未来に存在してくれないか。振り返らないから、赦してください、抵抗じゃない、けっして抵抗などではない。私にとってあのラストは唯一縋る祈りだ。今決まった。

このふたりを誰にも消費されたくない、けれどこうして映画になってしまうし、見る/見られる関係が暴力を孕まないロマンティックになってしまうし、美しく描けば描くほど「現実」と乖離してゆく。
ソフィの中絶ももっと描写されるかと思ったのにわりにあっさりしており、痛みと付き合う女の重みを捉えてはいない。
悲恋萌えしてろよバーカ。


この映画を好きか嫌いかと問われて困惑した。
こんなにぐちゃぐちゃだよ、好きとも嫌いとも言えん。
私のための映画でもないし、でも、切り離せない。思い返すたびに泣いている。
私のだ。私の恋だ。