真昼の淡い微熱

感想ブログ

アンモナイトの目覚め

えっ!?!?
ここで終わり!?
人間関係は!!摩擦が起きてからが本番やろが!!!

「おっ本番きたきた~♪楽しみ~♪でももうあんま時間ないから安っぽい和解を経て終わりかなあ」と思ったら唐突に終わった。
まあ安っぽい和解よりかはこの意味ありげな化石越しの終わりのほうがましだけど……それならあと1時間費やしてそれまでの丁寧さと同様に人間関係を積み重ねてほしかったんだが……納得いかね~。

なんかこう……『燃ゆる女の肖像』の批判としてはありな作品だけど、単体で見たらあの終わりは無理。私は受け付けない。
『燃ゆる女の肖像』は女ふたりが同じの感情をふたりして永遠に分かち合っていく、溶け合っていく百合。
そこに他者としてのあなたはいないし、恋愛をどこまでも美化した、憧憬のような映画である。
女同士が女同士であるというだけで別れることのない世界への、焦がれるような憧れ。受けた傷を舐めていくような、労るような、客観視なんか到底できない羨望。

本作にあそこまでの美化はない。
虫も鳥も風も泥も雨も、そして生きている肉体の病気も死も排泄も、すべて地に足ついている。
『燃ゆる女の肖像』のスカートに飛び火した美しき炎はどこまでも憎かったが、本作でくくられたスカートにまとわりつく泥は許せる。
ふたりで石を運ぶ共同作業、諦めているメアリーをシャーロットが焚き付けたから化石を掘り起こせたこと、このふたりの相互性はよかった。

けれども、他者が現れれば恋愛の美化が終了するわけではない。
このふたりに相互性があればこそ、この決定的な喧嘩がふたりのこれからを創造する礎になりえるはずだ。
なのにここで終わっちゃったら美化恋愛への批評性も人間関係をやっていく意思もなにもないだろ~が。



百合において海や水はありがちなモチーフで、どうにも理想化や清涼性や閉塞感に結びつく。
『燃ゆる女の肖像』もまさにそう。国を越えた普遍だな。
(ほんとうに、ほんとうに私は『燃ゆる女の肖像』への称賛に納得いってなくって、あれは15年以上前の古いタイプの百合の上位互換でしかない。監督や、社会に傷つけられてきた我々女好き女当事者が自らの傷の形を確かめ癒やすためにすがるのはわかるけど、これを時代設定を免罪符にして無批判に称賛するならば、現代商業百合のほうがよっっっぽどシスターフッドだし女同士が男に壊されねえよ!!関係の終了を前提にする百合絶滅寸前だし永続性を追求しとるのが当たり前だよ……『燃ゆる女の肖像』を称賛した口で商業百合を腐される鬱憤が出てしまいました。)

だから、この百合の海使いはよかったのだ。
シャーロットが海に浸かってみて荒波に退散する。美しくきらめいたりしない、つねに曇天の下にあるけして青くない海。
シャーロットにとって閉塞のように思われた海の街を「自由」と反転するメアリー。

そこはよかったからこそこの「次」をくれ。
女と女がただただ決裂しながら歩み寄りながら人間として生きてく百合をよ。(すでに商業百合はそこまでやってんだから。本質主義に陥らない女同士をさ)

そいえばシャーロットの夫あんまりにも舞台装置でしかなかったな。
結局こいつの権力を借りてメアリーを家に置くのはためらわれるわけで。
不倫がどうとか、家父長制とか、そういう物語に邪魔な部分は全無視された。
それも微妙~~。

史実は知らんのでただただ作品を見た感想でした。