真昼の淡い微熱

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はみだしっ子/三原順

「人生」といった体の構成であった……。
人生のような混沌さ。唐突さ。あっけなさ。連続性。
ラストの、グレアムの物語の本筋と、サーニンがクークーを想う傍流とが、全く絡み合わずに展開されていく筆致の織り成す「人生」っぽさの手触りよ。
ひとつずつ出来事が積み重ねられていくか、テーマを共有してぐるっと囲う群像劇に慣れた身からすれば、ああ私はこういう物語が読みたかったんだと思わせるに充分。

雪山が大きなターニングポイントなわけですが、これも「人生」の臨場感が細かい。
なぜならそれまでの4人のストーリーがたっぷり物語られたあとにそれは起こった。それは唐突だった。そしてそれは日々に疎くなりながら、断続的に思い起こされ、4人の基底をなしていった。アンジーやグレアムによって何度も意味付けされ、その再帰性をもって後付けで特異点として過去化されていった。
まるで人生じゃないか。

ラストの『はみだしっ子』ダイジェストおまけ漫画で明示されるとおり、グレアムは単純に雪山のことがトラウマとなって養子に引き取られてからも尾を引いた、そういう時系列ではない。
「なんとか子ども4人で命を繋いできたけど実際過酷な幼少環境にいた」ことを、引き取られたことでまざまざと思い知らされ、今までとこれからのギャップにアイデンティティが統合できない、したくない、拒絶したいから、雪山に固執していくんだよね。
親の金で高級車に乗るご身分を羨んでみせて、けれども今の自分にはその特権があることに、グレアムは耐えられなかった、いや耐えたくなかった。
いつだって切り捨てられる弱者だったのに、急に特権を得てしまった、切り捨てる側に回ってしまった。そうか、それの象徴がクークーでありリッチーだったのか。
貧しい家庭に育ったリッチーを、しかし、グレアムは負かすことができる。陥れることができる。「故意ではなく事故」でグレアムを刺したかもしれないのに!
ここは雪山とどう違うのだ!リッチーと今までの自分たちにどう違いがあるというのだ!
「君の責任だとはボクには言えない… それなのに君はボクにつきつける…知らせる ボクなんか大して強くも…優しくもないと… クークー!辛いよ!だからみんな君が怖いんだよ…」
弱者に非情になれる己を、グレアムは自嘲している。だからリッチーとクークーなんだ。

なんだろうね。
これだよね。どこかで聞いた言葉の寄せ集めじゃなくて、自らの言葉で語る弱者の叫びはさ。
つーかまずグレアムが父親を許さなかった、この期に及んでグレアムに些細な過ちを謝らせることで仲直りを図った父親を、同情せずに葬ったことから感嘆がある。時計の使い方。
「他人に負担をかけてまで生きてたクークーも死んでしまって幸せだったんじゃないか」みたいな言葉に対するサーニンの「誰が誰に言わせてるんだ!?それが幸せだなんて!」は圧巻である。
というかこれは後から体に効いてくる……。
「被害者面」で価値偏重的な作品じゃないのよ。「中立」でもない。被害者の話だ。被害者で加害者の。
物語が閉幕したあとの番外編、グレアムがあんななのにアンジーがもう馴染んでしまっている落差もまたきついんだけど、惚れた女の子に「父親がもう他の誰かの父親だと見せつけてしまった!」と悔いるモノローグに泣いてしまった。こういうとこまでカバーしてくれんのか。

てかアンジーが銃を持ってすらグレアムを救えなかったのがショックで、でもものすごい冷静な物語だと思うから好きなんよね……。

うーん。
思春期に読んでいたらどうだったかな。
心酔していたかさらっと読み飛ばしてしまったかのどっちかだったな。
あと時代が時代なので未成年喫煙飲酒と大人から子供への暴力がきついやつ。