真昼の淡い微熱

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この世界の片隅に

エンドロールと監督舞台挨拶のとき、涙があふれてあふれて。
安堵した。戦争が終わって。しあわせの。へいわの。終わったのだ。そう思って安堵して、涙が止まらなかった。

「悲劇の消費」とはよく言う。
「悲劇を消費して、自分の関わらない刺激的な悲劇にこそ喜んで、そして自分の安泰な日常生活に安堵する。悲劇をダシに幸せを語る」と言う。

私はこれを見ていて、そうじゃない、そうじゃないのだ、と、強く思った。
これはむしろ、「不幸を経験したからこそ小さな幸せを実感できる」類型だ。表裏一体。
いかに自分が幸せか、幸せなうちは気づかない。気づけない。それが当たり前だから。
不幸を自分事として追体験するのにノンフィクションや事実をもとにしたフィクションは導入として便利である。

すずさんの衣食住と平凡さ安寧を保つ居場所。
すずさんの精神安定をはかる絵描きの居場所。
居場所の入れ子構造?
もっかい見たい気持ちは強くあるけどしんどいのでしばらくむりやな……。

居場所を探して、居場所を与えられて、居場所を奪われて、居場所を選んでいく。
一瞬に奪われるのではない。徐々に削り取られてく。異常はすぐに日常と化す。
嫁に行って働いて禿げるほどのストレスが笑いに昇華されるのと、戦争による「よかった」探しは同じ線上に存在していて、だからあのときまで、極限に晒されていることに気づけなかったのだ。
はるみちゃんが「空襲飽きたー」って言ったところらへん、山田風太郎の戦争記エッセイを思い出した。
「空襲の多発する地域から疎開してきたので、空襲に慣れてなくて少しの爆音さえ過剰に怯えるこのへんの人間が馬鹿らしい」みたいな一文を。
麻痺する。慣れる。


周作が死なないでくれて本当によかった。
すずさんの居場所の最後の象徴を、奪わないでくれて……。